丸谷才一 年の残り 目 次  年 の 残 り  川のない街で  男 ざ か り  思想と無思想の間 [#改ページ]   年 の 残 り    かぞふれば年の残りもなかりけり     老いぬるばかりかなしきはなし [#地付き]和泉式部       1  小さな花をつけた二本の草。すらりと伸びた、細くて強い茎。右側の、心持かしいでいる長いほうには花が一輪、左側のまっすぐな短いほうには二輪。  しかし大事なのは花でも茎でもなく、やわらかに横へ伸びている数多くの葉であった。それは鳥の羽根に似た細長い複葉で、羽根の羽毛に当る二十対以上もの小葉は、さきへゆくにつれてすこしずつ小さくなりながら、整然と並んでいる。その秩序は、何か図案めいた可憐な感じを与えた。  二本の草は画面いっぱいに、丁寧に描いてあった。殊におびただしい数の小葉が、鉛筆の線でいちいち入念に辿られているのは恐しいくらいである。筆づかいも細心で、線からはみ出ている箇所など一つもない。花は黄いろ。茎は淡い茶いろ。そして葉は明るいみどり。もっとも、塗ってあるのは手前の草だけで、もう一本の丈《せい》の高いほうはデッサンのままほうってある。  水彩画を見ている少年に、老人は説明した。 「カワラケツメイだね。夏の花だ」  少年は顔をあげて言った。 「片方しか色をつけてないのがしゃれてますね」  たしかにその投げやりな態度は、克明な写実がもたらしがちな古くさくて退屈な感じを救っている。だが、高校一年生の後藤|正也《まさや》の批評に、六十九歳の上原|庸《よう》は苦笑して答えた。 「あとでつづけるつもりだったが、それっきりになって。怪我の功名だね」 「はあ」  後藤はバツの悪そうな声を出し、すこし顔を赤らめた。そして絵の右隅に書いてある「大正十五年六月三十日」という年月日を呟《つぶや》いた。上原は四十年も昔の夏の午後のことを思い浮べ、これはルフランの水彩絵具ではじめて描いた絵だった、と考えた。 「友達と旅行したときのスケッチでね。汽車の時間の都合で、ここまでしか描けなかった。東京に帰って仕上げるつもりで……」  暮れも押し詰ってから昭和元年に改まることになるあの年の夏は、どうしたわけか医局が手不足で、患者も多く、とうとう秋まで水彩画を描くゆとりなどなかった。秋もかなり闌《た》けてから、ようやく日曜日に……何を描いたろうか? と上原の回想がとぎれたとき、向いあった椅子に腰かけている少年が、テーブルの上のカワラケツメイの絵を横へのける。その下には、これも水彩画のヒガンバナがある。 「あ、きれいだ、この赤い花」  そして上原が花の名前を教えようとしたとき、少年はつづけた。 「先生はずいぶん上手ですね」  上原は率直な讃辞に照れながら、 「上手じゃない。ただ、子供のころから好きだった。三宅克己《みやけこつき》とか石井柏亭とかの真似をしてね」  少年は黙ってうなずいていたが、ピカソやクレーは知っていても、今あげられた二人の水彩画家の名は記憶にない。老人は、本当は絵かきになりたかったがやめたという話は控えることにして、その代り友達の話をした。 「中学の同級生に絵の上手な男がいてね。赤城泰舒《あかぎやすのぶ》ばりの、タッチの荒い、奔放な水彩画を描いて。あれはうまかったな」 「絵かきになったんですか?」 「いや、菓子屋の主人になった。銀座の大きな菓子屋でね。桜林堂という」 「ええ、桜林堂」 「アルバムには……ないな。高等学校のときからの写真だから」  三十枚ばかりの画用紙の下になっている、古びたアルバムへいったん伸《のば》しかけた手を、上原は引っこめた。そして少年は銀座の菓子屋の主人にはもう興味を示さず、ヒガンバナをカワラケツメイの上にのせて、今度はトキワススキの、灰いろがかった薄紫の線のつらなりを眺める。  上原は、 「あ、それは駄目だ。うまくゆかなかった」  と声をかけて批評を封じた。高校生は、 「先生は草が好きなんだな」  と当りさわりのないことを言ってから、 「そのお菓子屋さんも草や花を描いたんですか?」 「そうね。静物も描いたが、中学時代は風景が得意だった」  今は人物……と言いかけて、それは口にしなかった。しかし、少年がトキワススキの絵を横へずらして、キリンソウや、何枚かのツツジを、今までよりはずっと手早く見てゆくあいだも、その次の見馴れない花の絵にまた時間をかけているときも、上原は黙りこんでいた。彼は、それが台湾で描いたものだということさえ説明しなかった。六十九歳の医者は、友達の描いたクロッキーを思い浮べていたのだ。  それを見せられたのは十年ばかり前のことで、彼も友達も還暦を間近に控えていた。上原は、血圧を測りがてら遊びに来てくれと言われて、銀座の菓子屋の主人の西落合《にしおちあい》の邸へ行ったのである。ほぼ四十年ぶりに多比良茂《たいらしげる》の絵を見てすっかり感心し、やはりこの男は画家になればよかったのだと思ったのだが、今になってみると、あれだけ衝撃を受けたのは、多比良の筆力もさることながらモチーフが特異なせいもかなりあるのではないかという気がする。見せられた百枚ばかりはどれもこれもみな、房事の直後における若い女の下半身の、手早いスケッチであった。多比良は芸者と寝たあとで、彼女らのあられもない肢体のクロッキーを描いたのである。  上原と多比良が同級生だったのは、旧制の中学の四年間だけである。そして二人が特に親しかったのは、多比良が絵に夢中になった、おしまいの二年間にすぎない。上原は、万事を放擲《ほうてき》して絵に熱中するというようなことはしなかったが、多比良のほうは違う。彼は水彩画に凝りすぎて五年に進級できなかったため、父親に退学させられて、神戸のホテルへ菓子づくりの修業に出されたのだ。彼の父はきつい気性だし、それにもともと、商業学校へ進めという父親の意向なのに泣いて頼んで中学へ入れてもらったのだから、今度は逆らうことができなかった。こうして、一方は旧制の高校から大学の医学部、医局づとめの医者という道を辿り、一方は三年ほど神戸にいて、やがて父親がとつぜん死んだため東京に戻って家業をつぎ、いろいろと苦労することになる。二人はもう親しい友人ではなくなった。  多比良がいちばん辛かったのは父親が死んでから震災までの数年間で、この小柄ではあるけれども精悍《せいかん》な感じの若者は、老舗《しにせ》を切りまわすのにずいぶん悩んだらしい。なにぶんまだ三十前なので、取引先にはなめられるし、番頭には費いこみをされるし、桜林堂があぶないという噂はかなり広い範囲で囁《ささや》かれたようである。多比良の窮状を救ったのは関東大震災で、と言うよりもむしろ、地震のあとの嗜好の移り変りであった。店がまる焼けになった彼は、半ば捨て鉢になって、それまで母親や親類に止められていた年来の計画を実行に移した。和菓子は作るのも売るのもやめて、神戸から職人を呼び、商売を洋菓子一本にしぼったのである。時代の好みに合ったためであろう、桜林堂の洋菓子はよく売れた。上原はこのころ大学の医局に勤めていたが、珍しく銀座に出たとき多比良の店の前を通って、数年前のうらぶれた様子とはまったく違う活況を呈しているのに驚いた覚えがある。もっとも、患者から医局に届けられる菓子に桜林堂のものが多くなったことは、漠然《ばくぜん》と気がついていたけれども。ただし、繁昌している旧友の店の前を通りながら、声をかけようとしなかったのは、やはり疎遠な仲になったことを示すものであろう。  昭和にはいると桜林堂はますます有名になって、店は拡張され、それでも手狭なため多比良は西落合に邸を構えた。このころのある年、上原は、医局員がみんなで教授夫妻と名誉教授夫妻を歌舞伎座に招くという正月の恒例の集りのときに、多比良が芸者を連れて芝居見物に来ているのとばったり出会ったことがある。成績が落ちるのもおかまいなしに水彩画に熱中していた、銀座育ちとはちょっと見えない、元気はいいけれどもかなり野暮ったい感じの中学生の面影は、もちろんそこにはなかった。歌舞伎座の廊下で内科の医局員と立話をしたのは、まさしく、商売にも遊ぶのにも熱心な銀座の旦那であったし、若さのせいで貫禄の足りないところは、事業が当った自信で補っているように見受けられた。多比良はなつかしがって、西落合にぜひ遊びに来てくれと言ったが、二度ほど電話をかけても連絡がとれないし、それに上原も忙しい身なので訪ねてゆかなかった。そして、あとで誰かに噂を聞いたとき考えたのだが、このとき連れていた若い芸者が、どうやら多比良の最初の妾になったらしい。  西落合の邸では犬を何匹も飼い、その猟犬道楽が昂《こう》じて狩猟の味を覚えたあげく、満洲事変のころには朝鮮で虎狩りまでしたことがある。これはかなり得意だったらしく、うつぶせになって倒れている虎の後ろに鳥打帽の多比良がしゃがんでいる写真を、中学の同窓会の名簿でも手に入れたのだろう、わざわざ台湾の上原のところまで送って来た。上原は、学位を取ったあと、台湾のある病院の内科部長になって赴任していたのである。  虎狩りの写真ははなはだ評判が悪かった。上原の妻はこわがってアルバムに貼《は》ろうとしなかったし、彼が昭和十年に台湾から引き揚げて、中学の同級生で今は英文学者になっている魚崎|吉郎《よしろう》と何年ぶりかで会ったときも、この官立女子専門学校の教授は、あれはひどい悪趣味だと言って顔をしかめたのである。写真は魚崎のところにも送って来たのだそうだ。上原は、この男は中学時代から多比良のことをよく言わなかったから無理もないとは思いながら、しかし銀座の菓子屋の主人の稚気と凝り性を弁護した記憶がある。英文学者は、上原のようなストイックな男が、狩猟などという(それもフォックス・ハンティングならばいざ知らず、虎狩りなどという)快楽を擁護するのは怪しからぬとへらず口を叩《たた》いた。上原の生活態度をストイックだと言ってからかうのは、以前から魚崎の口癖なので、これを聞くと、いかにも東京に帰ったという気がした。しかし、そう言われたときのこれも口癖のような言葉——「ストイックな人間なら、水彩画なんかいじらないさ」——は言い返す暇がないうちに、話はすぐ藤木——魚崎の従弟《いとこ》で上原もよく知っている新聞記者の、上海《シヤンハイ》事変に従軍しての戦病死のことに移って、多比良の悪口もストイシズムについての冗談も、それきりになったのだけれども。  桜林堂の繁昌は戦争がかなりひどくなるまでつづいたし、それ以後も多比良は、軍の菓子を作ったり闇物資を扱ったりして儲けていた。大体このへんの時期が四十代の男ざかりに当るわけだが、女遊びにももちろん熱心で、いちばん多いときには四人の女を世話していた。このころの彼と上原の仲は、たまに銀座でばったり会うと立話をしたり、やあ、やあと挨拶《あいさつ》したりして別れる程度だったが、昭和十八年の春、多比良の妻が肋膜《ろくまく》になってから、上原はときどき往診を頼まれるようになった。こうして、中学の同級生であった菓子屋の主人と病院の副院長とのつきあいが再びはじまることになる。上原は当時、ある協会の付属病院の副院長兼内科部長をしていたのである。  彼が西落合の邸の応接間で、性交の直後の女たちを描いた百枚ばかりのクロッキーを見せられたのは、同じ病院の院長に昇格して十年ほど経ってからのことである。そのなかには、その年に描いたものもはいっていた。上原は(そして多比良も)還暦だったから、つまりようやく四十年以上ものちに、再び同級生の水彩画を思いがけなく見ることができたというわけになる。驚きは大きかった。自分は院長になったころから、もうパレットに手を触れていないのに、友達は今でもスケッチをしているということ。それが驚きの第一。第二に、昔は赤城泰舒ばりの風景が得意であったのに、今はすっかり画風が改まったということ。上原は一枚ずつ眺めながら、あのたくさんの面皰《にきび》に困っていた中学生が、髪も黒いし肌もたるんでいないけれども、しかしどう見ても六十を越しているこの老人にとつぜん変ったみたいに、画風の変化に驚かされたのである。それはBか2Bの鉛筆で硬いケント紙に細い線をすばやく走らせ、淡彩でところどころ染めた、余白の多い絵であった。 「ロダンだね」  と批評すると、小柄な菓子屋の主人は長い眉毛をかすかに動かして上原の顔を見、怪訝《けげん》そうに、 「おい、彫刻じゃないぜ」  とたしなめたので、病院長はロダンのクロッキーについて手みじかに説明しなければならなかった。しばらくやりとりがあって、戦後すぐのころ、多比良が退屈しのぎに銀座の画廊の個展を覗《のぞ》いたとき、画家(それはたしかに日本人だった)の名前は忘れたが、とにかくこの手のデッサンを二十点ばかり見て感銘を受けた、ということが明らかになった。彼はにやにやしながら、自分がその真似をしたということを認めた。つまり、多比良はロダンの間接的な影響下にあったわけである。  上原は友達の絵の才能に改めて感心したのだが、これは驚きの三番目としてあげてもいいかもしれない。鉛筆の線もくどくなくて鋭いし、絵具の扱い方も勘どころを押えている。すくなくとも、百枚のうち十枚はそう言ってもよかった。次の往診のとき、ロダンの素描集を持ってゆくと、多比良はゆっくりと時間をかけて眺めたあげく、 「すごいねえ。やんなっちゃった。あの銀座の絵ならともかく、こうなると、とても素人には……」  と吐息をついたのだが、これも上原には、腕のたしかさにふさわしいだけ鑑賞眼も高いことの、いわば証拠になるように思われた。ただし「素人」はそれにすぐつづけて、 「第一、やってから描くんじゃね。もう、くたびれて」  と負け惜しみを言ったのだが、その言葉を聞くまでもなく、多比良が「やってから描」いたことは明らかで、さまざまに脚をひろげた女たちの、さまざまの膝や腿《もも》や腹、殊に濡れた部分の感じが、水彩画の持ち味をうまく使って、さらりと、しかし官能的にとらえられていた。女が厚い蒲団に寝ていて、多比良が畳の上にいることは、低くすえられた視点でよく判る。そしてそれぞれのクロッキーの隅には、あるいは思いきり崩して、あるいはきちんとした楷書で、年月日と女の名が書いてある。つまり百枚ほどの絵は、店と家庭の外での多比良の生活を示していた。そして六十二歳の病院長にとっては、もっと前ならともかく、この年になってからも友達はまだこういうことをしているというのが、実はいちばん大きな驚きであった。 「盛んなものだね」 「うん、君はどうなんだ?」 「ぼくはそろそろ終りらしいや。しかし、十年もかかってこれだけかい?」 「描かせない女もいるし。別に金をやるわけじゃないからな。それに、出来の悪いのは捨てたし」 「細君に見られたら困るだろう。よく家《うち》に置いとくね」 「いや」  と多比良はみょうな顔になって、妾は焼餅をやくけれども妻は絶対にそういうことがないと断言した。上原は納得がゆかないままうなずいて、それから、よく描けている数枚をもういちど眺め、 「ロダンだね」  と言ったのである。……  六十九歳の病院長は自宅の応接間で、同い年の友人の描いた女たちの陰毛を、暗い襞《ひだ》を、臍《へそ》を、思いつづけている。陰毛は濡れた刷毛《はけ》のようだったり、苔《こけ》のようだったりした。襞はねじれた紐や、傷や、二つ並んで燃えている蝋燭《ろうそく》の焔を思わせた。そして臍は水たまりに似ていたり、えくぼに似ていたりする。その前では、鼻の下にごく薄いひげが生えている、高校一年の後藤正也が、台湾の草花のスケッチを一枚いちまい黙ってゆっくりと見てゆく。それはたいてい、外地の花のけばけばしい色彩がうまく出せなくて、変に浮いた感じになっているものだ。ただし、このへんの絵は和製の絵具を使っていたせいだろうか、だいぶ色が褪《あ》せて、描いた当座よりはすこしはましになっている気味がないでもないが。上原は、たぶん自分は絵かきにならなくてよかったのだろうが、多比良の場合はそうとも限らない気がするという、今まで何度も考えたことをまた心のなかでくりかえした。すると、あのとき殊に感心した、片膝だけ立ててその膝がしらに手を置いている、黒ずんだ肌の女の体の、短くて細い真赤な線が不意に心に迫って来る。あの赤い、ほとんど点と言ってもいいものの効果は忘れることができない。 「ああ、そのおしまいの一枚は内地に帰ってから。その前はずっと……」  少年は顔をあげて上原を見たが、院長はこのときも台湾の野の花のことを説明しそこねた。電話が鳴りだしたのである。妻が買物に出かけて、一人で留守番をしている上原は、その騒がしい音のほうに向って、仄暗《ほのぐら》い廊下を茶の間へ歩いてゆかねばならない。  それは病院の庶務課の男からで、彼は院長が電話口に出たことをすっかり恐縮しながら、事務長はそちらに伺っていないだろうかと訊ねた。来ていないと上原は答え、庶務課の者はいっそう恐縮した。当直の退屈をまぎらすためテレビを見ているのだろう、彼の詫びる声にかぶせて流行歌が聞えた。受話器を置いて二、三歩あるきかけたとき、また電話が鳴った。上原は電話へ戻りながら、季節はずれの虻《あぶ》が一匹、網戸のすきまからはいって来て、窓際でゆるく円を描いているのを認めた。今度はデパートにいる妻からで、日曜だからたぶん来ないとは思うけれども、もし洗濯屋の御用聞きが来たら、白いワイシャツ二枚のほかに縞のワイシャツも忘れないでほしいと言う。上原は虻を見ながら、きっとそうすると言って電話を切った。するとその途端、またもや電話が鳴りだしたのである。院長は、小さく舌打ちしながら手を伸《のば》した。  後藤正也は、上原の無愛想な応対の声をかすかに聞きながら、広さのわりにはすこし家具が多すぎる応接間を見まわし、書棚の上に飾ってある台湾の人形をぼんやりと見ていた。そして、先生は今日なぜぼくを引き止めて、アルバムや絵を見せたりするのだろうと怪しんだ。こんなことは今までなかったことで、いつもは診察がすむとすぐに帰ったのに。  正也の母の実家では上原がかかりつけの医者だったが、正也の家でもごく自然にそうなっていた。銀行員である父も、胃の具合がおかしいとか体がだるいとかいうときには、上原の病院かそれとも家へゆくのである。息子のほうもそうしていた。もちろんこれには、病院も家のほうもわりあい近くで便利だというせいもあったけれども。今朝、正也は食事のとき、一昨日の体育の時間のマラソンで横腹が痛くなったが、その痛みがまだ取れないと、ついうっかりしゃべった。それを聞いた母親は大騒ぎして、すぐに上原先生のところへ伺うようにと言い出し、そんな必要はないといくら止めても電話をかけてしまった。こうして少年はほぼ一年ぶりに、「上原庸」という表札の出ているひっそりした家を訪れることになる。いや、彼はこの一年ほど、病院で診察を受けたこともないのだが。  正也を迎えたのは機嫌のいい老人である。彼は、秋晴れの日曜日だし妻は留守だしで、たった一人で寛《くつろ》ぎ、そしてちょっと退屈していた。だが、老院長にはその上機嫌をうまく表現することができない。彼は、いつもとあまり違わないぶっきらぼうな口調でものを言った。そして少年には、上原が自分を喜んで迎えるということが判らなかった。この丈が高くて姿勢がよく、眼の鋭い白髪の男を、子供のころから恐れていたし、それに今日は久しぶりで、しかも母親の付添いなしで診察してもらうのである。当然、いつもは母親が引受けてくれる挨拶も自分でしなければならない。少年は緊張していた。そして恐れと緊張のせいで、院長の目つきが普段よりすこし優しいことを見のがした。  上原は正也の訪れるのを心待ちにしていたのである。それは、患者を待つというよりも友達を待つ気持にずっと近かったかもしれない。妻が出ていってから、半分が赤で半分が青の鉛筆を手にして、日あたりのよい茶の間で医学雑誌を読んでいるときも、二、三度、もう来そうなものだと時計を見たほどなのだ。老院長は前から、賢くてしっかりしているこの男の子が気に入っていたし、それに今日は一つ特別の理由がある。それは、正也の母からの電話を受取った妻が、電話口でながながとおしゃべりをしているうちに判ったことで、正也がこの春、上原の出た中学の後身である名門の新制高校にはいったという知らせであった。妻がそのことを取次いでも、上原はうなずいて微笑しただけだが、心のなかでは非常な喜びを味わっていた。そのとき彼はとつぜん、少年が自分の孫で、そしていかにも自分の孫にふさわしく知力が優れているという、奇妙な錯覚を感じていたのである。  もちろん上原はすぐに錯覚を正した。自分とあの男の子とのあいだにはどんな血のつながりもない。そして、名門校の入学試験に合格したからと言って、別に賢いとか頭がいいとかいうことにはならない。例外はむしろ多すぎるくらいではないか。上原は自分をそうたしなめてから、読んでいた朝刊を卓袱台《ちやぶだい》の上に置き、これを世間によくある「母校愛」という感情なのかと反省して心のなかで苦笑いしたが、一瞬のち、自分の喜びの正体がもっとよく判ったように思った。  上原夫婦には、昭和四年、すなわち台湾ゆきの前々年に生れた男の子がいた。一人息子である。一人っ子なので甘やかしてはならないと考えたのだが、きびしく育てたのがかえっていけなかったのかもしれないし、そう心掛けながらも実は、女親はもちろん男親も甘かったせいか、それとも、もともと素質の劣った子供なのか、とにかく、軽薄で凡庸な、努力することの嫌いな男の子になった。小学校のはじめのころには、東京のかなり格の高い学校なのに成績がよかったが、中学は三流の私立の学校にしかはいれないし、大学は四つ受けてみな合格しない。上原はそのことには、悲しみはしたけれども驚かなかった。悲しみかつ驚いたのは、と言うよりもむしろ呆れたのは、その四つのうち二つが医大ないし医学部であり、一つは工学部であり、残る一つは芸術学部であって、いったい人生において何をしたいのか、明らかでなかったことである。上原は自分が中学生のころ、画家になろうか医者になろうかと悩みつづけたあげく、四年生の夏休みの終り近くになって自分で断を下したことを思い浮べ、あれはわたしが並はずれて早熟だったのだろうかと怪しみさえした。そんなふうにとりとめのない志望だということを(そしてただそのことだけを)、彼は入学試験の発表が全部すんでから叱ったのだが、息子はただ、もう一年勉強して大学にはいりたいと言うだけで、父の言うことの意味がついに判らなかったらしい。  それは昭和二十一年のことで、翌年の二月、上原は院長になる。その春、息子はまた四つの(そしてさまざまの種類の)大学の入学試験にしくじった。父親は絶望しながら、もう一年やれと言って、慰めたり励ましたりした。だが半年後、息子が結核になって寝こんでから、彼は思いがけないことを妻に打明けられた。それは、四月の上旬に知人の紹介で、ある男が訪ねて来て、もしこれだけの金を出してもらえるなら某一流大学の某学部に入学させてやると約束し、妻はその口車に乗って、夫には内緒《ないしよ》で金を渡したがまったくの捨て金に終った、という話である。上原は、ずいぶんしっかりした賢い女だと思っていた妻も、子供かわいさのあまりこういうことになるのかと考えて暗然とするだけで、一言も叱らず、ただ妻を慰めるだけであった。  息子の病状はよくなかった。自分が診察するのは情がからんで危険だと考え、先輩が所長をしている療養所へ入れたが、体力がつかないうちに外科手術をした形になったのである。もっと自分の意見を主張すればよかったと悔んだり、院長の仕事の忙しさのせいで父親の義務を怠らなかったかと自分を責めたり、妻が医者の悪口を言うのに対して医者をかばったり、高い新薬を買うための借金をしたりしているうちに、翌年の夏、息子は死んだ。その冬のある晩、炬燵《こたつ》に当って本を読んでいた上原は、妻がふと問わず語りでしゃべったことに改めて驚かされた。あの不正入学の話が持ち込まれたとき、息子に相談すると、あの大学にははいりたくない、あの大学の野球は嫌いだからと答えたというのである。息子のそういう気持にもかかわらず自分がかるがるしく取りはからって、あんなことになったのを申しわけなく思うというのが、妻の繰り言の要点だったらしい。そして上原は、息子が拒んだのは不正入学それ自体では決してなかったということよりも(その点についてはもうとうに諦めていた)、あの子はやはり大学の値打ちを野球で計る程度の人間だったのかという寂しさを、みょうに虚《うつ》ろな気持で味わっていたのだ。それは彼が五十の年のことで、そのころはまだ髪が黒かった。  今朝、六十九歳の白髪の院長は、卓袱台の前で、つまり自分は息子がきちんとした知識人になることを非常に望んでいて、それがかなえられなかったため、患者の一人にすぎない少年を孫のように感じたのではないかと考えた。その分析はどうやら当っているらしいし、ひょっとすると心の底ではとうにそのことに気づいていたから、妻が正也の合格の件をはしゃいで取次いだときも、わざと素気《すげ》ない返事をしたのではないか? そう、過去を思い出させて妻の心を傷つけないために。上原は、二十年も前のことがこんな形で迫って来ることに狼狽《ろうばい》した。そして、名門の学校にはいることがすなわち知識人になることを意味するわけじゃないとか、息子が俗悪な大衆の一人になってもさしつかえないじゃないかとか、昔いろいろと自分に言い聞かせて納得したつもりだったのに、それでもあの願望は心のなかで死に絶えていなかったということを認めた。しかし、それならばなぜ、今まで同じ年恰好の少年に対して、祖父のようなあるいは父のような感情をいだくことがなく、今日はこういう感情をゆすぶられるのか? 優秀な少年をほかに見かけなかったわけではないのに。これはたぶん、自分がすっかり年を取って、いわば死後の生を求めはじめ、その解決策の一つ、ないし|まやかし《ヽヽヽヽ》の解決策の一つとしての子孫というものに、無意識のうちにすがっているためではないだろうか? そのことを思い当ったとき、上原は自分の弱さを恥じていたし、ほとんど反射的に、マルクス・アウレリウスの言葉が心に浮んで来た。レクラム本の細かな活字が眼に辛いので、近頃はめったに読まないが、気に入っているくだりは暗誦することができる。昭和のはじめ英文学者の魚崎が(彼はマーカス・オーリーリャスと発音した)、ストイックな男にはぴったりだとからかいながら推薦してくれて以来、レクラム版の『冥想録』は彼の愛読書になっていたのである。 [#1字下げ] 昨日は一しずくの精液、明日はミイラか灰。それゆえこの地上における束の間を「自然」の意志のままに過して、やがて安らかに憩《いこ》うがよい。ちょうど熟したオリーヴの実が、自分を産んでくれた大地を祝福し、自分を実らせてくれた樹に感謝しながら、落ちてゆくのと同じように。  秋だったから、そして晴れていたから、感謝しながら大地へ落ちてゆくもののイメージは、あまり抵抗なく受け入れられた。息子も落ちて行った。自分もやがて落ちてゆくことになる。そして、ただそれだけのことにすぎない。彼は、妻が台所で朝食の皿を洗っている物音を聞きながら、死後の生という観念の虚妄《きよもう》を静かに嘲《あざけ》った。それから妻はデパートへゆくために身支度をはじめ、老院長はずっとむかし死後ということについて魚崎と語りあったときのやりとりを思い出した。それは昭和四年の夏のことで、イギリスから帰って来て間もない魚崎は、その春、官立女子専門学校の教授になっていた。彼が魚崎の家に遊びにゆくと、藤木という新聞記者も来あわせて、三人でビールを飲んだのである。  三人は籐椅子《とういす》に腰かけていた。彼らのそばでは黒い翼の扇風機がまわっていた。 「ストア哲学というのはおもしろいね。近頃すこし読んでるんだが」  と白がすりを着ている英文学者が言った。 「おれをからかうためにかい?」 「違うよ。誤解するな。シェイクスピアと関係があるんだ」  魚崎は、自分の専門はロマン派の詩人なのだが、帰って来るとき船のなかで読んだ新しい批評家の論文のせいでストア哲学にすこし興味が出て来たのだ、と説明した。そして、 「ストアの哲学者と死後の世界との関係というのは、じつにおかしなものだね」  と話をつづけた。やはり白がすりを着ている三十一歳の医者が、枝豆を食べながら、 「そんな死後の世界なんてもの、頭から受けつけないだろう、あの連中は」  と言うと、魚崎は嬉しそうにして、 「誰だってそう思うよね。ストア哲学というのは唯物論的だから。ところが、れっきとしたストアの哲学者のくせに、死後というものを信じてるやつが大勢、でもないがかなり、いるんだぜ。信じると言ったって、その時代や社会の常識を受け入れるという形で。まあ、消極的な信仰とでもいうか」 「ほう、初耳だ」 「ぼくもこないだ知ったばかりさ」  魚崎の従弟である、入社したばかりの新聞記者は、二人の話に口をはさまないで、しかし熱心に聞いていた。彼は上衣をぬいで、ワイシャツの袖をまくりあげている。上原は訊《たず》ねた。 「なぜだろう? ストアのくせに」 「こうなんじゃないかと思うんだ。あいつらは、現在の生に熱中してて、この人生のことしか考えない。死後のことなんかどうでもいい。だから、その問題はあっさりと当世の常識にまかせる……」  魚崎はそう言って、みょうな笑顔で上原を見た。それは、友達をからかいはじめるときの、直前の表情なのである。しかしこのときは医者のほうがすばやかった。彼はとつぜん、叫ぶようにして言った。 「おい、判ったぞ。現代の常識は唯物論である。だからストイックな人間であるぼくは、その現代常識によりかかって、死後なんてものはないと信じてる——君はそう言いたいんだろう。ところが……」  英文学者は笑うだけで答えない。そのとき魚崎の妻が新しいビールを持って出て来た。朝子は二十五か六の小柄な美人で、金持の娘だった。魚崎の洋行の費用はほとんど彼女の実家から出ているのである。妻は藤木と六大学野球の噂話をはじめ、夫は上原とストア哲学の話をつづけた。英文学者は、ストア哲学というのは奴隷の哲学だから、現世的になるのは当然である、と言った。なぜなら苦役に服している奴隷には、貴族や市民と違って、死後という高級なことについて考えるだけのゆとりがないからである。医者はそれを聞いて、たしか奴隷あがりの哲学者が一人いたようには思うが(「エピクティータスだったかな」と魚崎が呟いた)、マルクス・アウレリウスはローマの皇帝じゃないか、と反駁《はんばく》した。 「いや、そういう意味じゃない。しかしね、皇帝というのは、あれは実際、奴隷みたいなもんだぜ」 「三日ばかりやったことがあるような口調だ」  と上原はみんなを笑わせて、 「つまり、本質的に奴隷である人間の哲学がストイシズム、というわけか」 「そう。奴隷根性の持主という意味じゃないよ」  と魚崎は但し書きをつけてから、 「世界が自分を見殺しにしてる、とか、意地わるをしてる、とか思っている者が、そういう条件のなかで自分を励ますための信条。それがストア哲学ないし克己主義だというのが、イギリスの新しい批評家の意見でね。おもしろかった」 「それなら、ぼくがストイックとはぜったいに言えないな。世界からいじめられるなんて感じたことは一度もない」  上原はそう答えてから、君はどうもぼくの経歴を誤解してるんじゃないかと、笑いながら抗議した。彼の父は近県の小さな町の開業医で、一つには家計にあまり余裕がないため、一つには教育に都合がよいように、中学にはいるときから東京の叔父の家へあずけられ、父の金と叔父の金と半々ぐらいで育てられた。しかしそういう少年時代なのに(「鈍感だったかもしれないが」と上原は断って)別に辛いとも寂しいとも思わなかった。絵かきになれないのは残念だったが、これはむしろ才能についての自己評価の結果だから、奴隷のくやしさとは違うだろう。 「そう大して、自分を励ましたりなんかしなかった。今でもそうですよ」  魚崎は自分の冗談のせいでこんな話になったので、すこし困りながら、 「いや、そういうことじゃない。いかにも医者らしい唯物論と、自分に快楽を禁じて努力を強制する態度と、それからみょうな楽天主義。それが上原にはあるんだよな」  と一人でうなずいていた。ストア的楽天主義というのは、南京虫は朝の目覚めを助け、ベッドにあまり長くいるのを妨げる、だから人間にとっては有用だ、という考え方なのだそうである。医者と新聞記者と英文学者は、南京虫について論じた古代の哲学者のことを、なかなか気がきいていると言って褒めた。もちろん、上原はすこし苦笑しながら。そして英文学者の妻は、南京虫がどういうものなのかを知らなかった。  あのとき魚崎は、死後の生というものを信じると言ったかどうか、老院長には思い出すことができなかった。たぶん、どちらともつかぬ曖昧《あいまい》な意見を述べただけじゃなかったろうか。上原は、自分があんなに若くて、死ということについて何も考えていないも同然だったのに、それでも死後の生はないと主張し、その考え方が約四十年後の今でも変らないということに、そして、開け放してある窓からしきりに醜い蛾《が》が飛びこんで来るあの夏の夜の四人のうち、若いほうの二人、つまり魚崎の先妻、朝子と、藤木とがもう死んでいて、年上のほうの自分と魚崎とがまだ生きていることに、かすかな感慨を覚えた。妻がデパートへ出かけ、上原は医学雑誌を読むことにした。しかし、後藤正也のことはさっきでもう|けり《ヽヽ》がついたはずなのに、上原は何度も時計を見た。院長は、これはあの男の子が交通事故に遭ったのじゃないかと気にしているだけだ、などと自分に言いわけしたり、こんなふうに気が散って雑誌論文に心が集中しないのはいけないと自分を戒めたりした。  そんなふうにしているうちに、古びたブザーが蝉のように鳴ったので、上原は人さし指を栞《しおり》のかわりにしてページのあいだに入れ、その読みさしの雑誌を手にしたまま仄暗い玄関に立ったのである。後藤正也が来ていた。少年は、上原がぼんやりと予想していたよりはずっと丈が高くなっていて、しかし相変らず子供っぽい顔をしている。それは上原をすこし失望させたが、その失望は彼の嬉しさをいささかも減じない。彼はお祝いの言葉を述べた。  だが正也は怪訝《けげん》そうな声で問い返し、それから二言三言のやりとりがあって、むずかしい入学試験に合格したことのお祝いだと判ると(上原は、その学校が自分の母校でもあるということには触れなかった)、 「別にむずかしくないんです。今は学区制ですから。籤引《くじび》きのようなもので」  と言った。上原はすこしあわてて、 「ああ、そうか。なるほど」  と呟いたが、それを聞くと正也はとつぜん恥かしくなって顔を赤らめた。彼は、暗い玄関から暗い廊下へと院長のあとについて歩いてゆきながら、これは何も自分が悪いせいではない、年寄りの早合点がいけないのだと考えていた。  こうして、せっかく母親から教わって来た挨拶は、玄関では口にする暇がないし、応接間でも、キッカケがつかめなくて黙っているうちに診察がはじまる。その結果は正也が思っていた通りで、横腹の痛みを気にする必要はない、成長期によくあるビールス性の神経痛で、痛みはじきに取れるということだった。だが、注射を一本うってもらい、帰ろうとすると、こないだ押入れを片づけたら出て来たという汚れた古いアルバムを見せられたのである。旧制高校のころから医局時代までの写真で、一人だけのものは一枚もない。黄ばんだり褪せたりしている写真のなかの院長は、若くて痩《や》せていたし、今よりももっと丈が高いように見えた。少年は、自分が知っている上原と、たとえば最初の、高等学校にはいったばかりで新しい白線帽がまだよく似合わない上原とが、ひどく違っていて、それにもかかわらずどれが彼なのか(彼|だった《ヽヽヽ》のか)すぐ見分けがつくということに驚いた。  高等学校のころは、たいてい着物に袴で帽子をかぶっていた。ほかの学生も同様である。和服の写真がつづいたとき、老人は言った。 「洋服は着なかったな。軍事教練のときは違いますよ。もっとも、なかには、紺がすりに袴で鉄砲かつぐ豪傑もいてね」  老人と少年は同時に微笑した。上原は、軍事教練のことは説明を加えるべきだということを忘れていた。そして正也は「鉄砲」という一語からおおよその見当をつけた。  四人がみんな、霜降りの夏の制服を着ている写真があった。彼らは麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶっていて、それには白線を染め抜いたリボンが巻いてある。明治時代の長椅子のようなものに二人が腰かけ、そのうしろに二人が立っている。腰かけている二人のうち、上原でないほうは、手製らしい杖を持って威張っていた。しかしそれは戸外でではなく写真屋で撮ったもので、背景は、描いたものとはっきり見て取れる樹々や叢《くさむら》である。 「二年のときだね。朶寮《だりよう》五番にいた連中で山あるきに出かけて。赤城から上州|武尊《ほたか》へ抜けて、尾瀬沼から田島。これは会津若松の写真屋だ。どうも修整が下手だな」  たしかに、若い上原の鼻筋は白く光り、白粉を塗ったように見えておかしい。そして、六十九歳の彼はアルバムを覗きこむようにして言い添えた。 「ぼくの隣りの無精ひげの男、それは前川といってね。函館の病院の外科部長をやっていて、戦争中に死んだ。後ろの左側、うん、こっち側は、岡山医大の産婦人科の教授になったが、一年も経たないうち癌《がん》になって。こっち側は永井。去年か一昨年《おととし》だな、死んだのは。杉並で開業していた」  正也はついうっかり、 「みんな死んだんですね」  と口をすべらせた。上原はのんびりした口調で、 「そうだね、みんな死んだ」  とうなずいた。そのこだわりのない様子が、かえって正也をあわてさせた。この老人は、自分だけは死なないと楽観しているのだ、と少年は考えたのである。彼は、その楽観を傷つけないため、早く話題を変えねばならぬと判断した。そして、新しい話題は簡単に見つかった。 「先生、山のぼり好きなんだな」  正也はうつむいたままそう訊ねながら、黒くて厚いページをめくる。 「うん、ずいぶん登ったよ。台湾にいたころは新高山《にいたかやま》にも登った。頂上まではゆかなかったが」  それからさきは、老院長はどの写真にも説明を加えなかったので、正也は、先生は忙しいのだろうと思い、終りのほうになるとかなり早く見て行った。しかしアルバムが終ると、上原は、これといっしょに出て来たのだと言って、水彩画を一束持ち出したのである。正也には、今日はなぜこんなふうに引き止められるのか判らなかった。上原が電話で何か話をしている今でも、さっぱり納得がゆかない。正也は自分の家《うち》を手がかりにして考えてみた。休日に、母が妹を連れて買物に出かけると、父がひどくのんびりした表情になることに気がついていたからである。ひょっとするとあれと同じなのかもしれない。だが、上原先生と父とでは二十五も年の開きがあるはずだ。それといっしょくたにしてしまうのは、やはり無茶なような気もする。  遠くでの話声がいつの間にか聞えなくなった。電話は終ったらしい。しかし上原が戻って来たのはそれからずっとあとのことである。彼はよそゆきの服に着替えている。黒っぽい三つ揃いの背広の男は、応接間の戸口で言った。 「急患があって往診にゆくから、いっしょに出よう」  正也は戸じまりをするのを手伝った。上原は隣りの家へ、留守にするからよろしく頼むと声をかける。二人は通りへ出てタクシーを拾った。上原は、途中で一人おろしてそれから西落合へ行ってくれ、と運転手に言いつけた。そのときも、それからのちも、老院長の心には、洗濯屋へ出す三枚のワイシャツのことはなかった。彼はただ、多比良はなぜ自殺したのだろうと、そればかり考えつづけていたのである。     2  いや、多比良の家から電話を受取ったとき、答はすでにあった。上原はただ、自分の推測が正しいかどうかを検討していたにすぎない。  電話は男の声で、ひどく取り乱していた。彼は、とにかく早く来てほしいと早口に頼んでから、ようやく西落合の多比良の家の者だと言い添え、猟銃の事故で死んだのだと説明した。そのとき医者は、近くに来た虻を手で払いのけながら、これは桜林堂の運転手の声だと悟った。院長は身を護るために、そばにある新聞紙を畳んで握りしめ、それを構えてから訊ねた。 「もう息は引き取ったんだね?」 「はい」 「事故と言ったが、自殺?」 「はあ、そうです」  運転手はしぶしぶそのことを認めた。 「猟銃と言いましたね」 「はあ」 「奥さんが猟銃を扱えるの?」  上原はその瞬間まで、自殺したのは多比良の妻のほうで、自殺の理由は夫の放蕩《ほうとう》、と思いこんでいたのである。遠くから流れて来る声で、多比良が死んだのだと知ったとき、院長は二月《ふたつき》ばかり前に強精剤の相談を受けたこととこの自殺とを、すばやく結びつけていた。ただしその相談のときの菓子屋の主人の口ぶりは、世間話でもするみたいだったし、屈託のない、むしろ明るい感じのもので、今まで上原はさほど気にとめていなかったけれども。  多比良の妻を診察しにゆくのは、たいてい月に一、二回である。午後のことも、夜のこともあるし、まれには多比良もいあわせる。主人のほうの血圧を測ることもあるが、この小柄な血色のいい男は、十年前に胆嚢《たんのう》を患《わずら》ったほかは病気らしい病気をしたことがない、頑健な老人なのだ。二月前のその夜は、病間から応接間へ案内されて酒が出た。主人は上機嫌で、今までの桜林堂の敷地に建てた、地上六階、地下一階のビルへの貸事務所その他の申し込みが予想より遙かに多いという話をした。この四月、ビルが完成した当時は、桜林堂の店と喫茶店で使う一階と二階、長男夫婦の住居になる六階のほかは、地下一階を酒場に貸す話しかまだ決っていなかった。内心びくびくしていたのだが、この分ならどうやら大丈夫らしい。それに今年から製菓のほうはやめ、四谷の「竜」という菓子屋に請負わせて、もちろん桜林堂製のケーキとして売るという企業合理化をやったが、この成績もなかなかいいし、「竜」のより桜林堂のケーキのほうがうまいなんて何も知らずに言う人もいる、と自慢した。  そして、もともと多比良には、自慢話や景気のいい話をしたあとでは、すぐに照れて今度は愚痴をこぼすという、商人らしい(あるいは都会人らしい)癖があったが、このときも照れかくしのようにして、いったい近頃はそういうことが多いのだが、つい先日も女と寝てしくじった、という打明け話を事こまかにしたのである。その口調は暗くなく、むしろそういう滑稽を楽しんでいるようであったし、事実、話にはちゃんと落ちまでついていた。微笑して聞いていた上原は、落ちのところで笑い声をあげてから、慰めるつもりで、 「羨ましいね。ぼくなんか、とうに卒業してしまった」  と言った。 「ほう」 「もう十年くらいになるかな。十年は経ってないか」 「そういうものかな」  と多比良は大仰《おおぎよう》に驚いて、 「すると、あたしがおかしいんだろうか?」 「いや、ああいうことは個人差が大きいから」  と医者は答え、それからさきの、普通、知的労働者は早く終りになるようだという話は差控えた。何かいい薬はないかと訊《き》かれて、いろいろ説明したが、具体的にどれを使えとすすめはしないで、ただ、やはり心理的な要素が強いから、新しい恋人を作るのが一番よかろうと笑いながらすすめた。すると多比良は、めっきり髪の薄くなった頭を撫でてから、 「やっぱり、薬より新いろか」  と、はしゃいで見せたのである。  それから医者は、 「でも、そういうあとでも、クロッキーはやるんだろ?」  と訊ねた。菓子屋の主人は、 「それがねえ。本当はその気で用意してたんですがね。ショックが大きくて、忘れちまった」  とおどけた口調で答え、 「なあに、この次からは」  と、みょうな威張り方をした。それは、この次からは陰萎《いんい》にならないでみせると言ったのか、この次からは不能であってもクロッキーだけは描くと約束したのか、今となっては判らないのだけれども。それから多比良は、近頃は銀座の画廊の展覧会を覗いても、どうもおもしろくないと嘆き、上原は、美術館へゆくほうがいいとすすめた。医者は多比良の家の車で送られることになった。主人は玄関まで送り出しながら、 「しかしねえ、先生」  とすこし酔った声で、 「こうなると男も生き甲斐がないねえ。その点、先生はいいや」  と、ハイヤーに乗りこむ上原の後ろ姿に言った。飛び出して来た犬が、ちょっと吠《ほ》えてから叱られ、抱きかかえられた。応接間には顔を出さなかった多比良の妻が、玄関まで見送りに出ているので、上原は笑うだけに止《とど》めて何も言わなかった。あくまでも冗談として受取ったのである。あるいは、受取ろうとしたのである。しかし考えてみると、「先生はいいや」という一句の意味は判らなかったし、それに全体が、冗談にしては寂しい口調で言われたような気もして来る。院長は車のなかでこだわりはじめ、 「生き甲斐」  と呟いて運転手に問い返された。そして上原は、 「いや、何でもない」  と答えてから、例によってマルクス・アウレリウスの言葉、 [#1字下げ] 料理が前に置かれると、われわれは考える。これは魚の屍《しかばね》だ、豚の屍だ、と。このファレルノ葡萄酒は一房の葡萄の汁にすぎない、とか、あの紫の衣裳は貝の血で染めた羊の毛にすぎぬ、とか。あるいはまた、性交とはすなわち性器の摩擦と射精の謂《いい》にほかならぬ、とか。  を思い浮べて、しかしすぐ眠ってしまったのだが。  老院長は相変らず虻の動きをみつめながら、桜林堂の運転手に、 「それで遺書は?」  と訊ねた。 「イショ?」 「ええ、遺書。書き置きはあるの? なかった?」 「さあ、どうでしょうか?」  医者はみょうにもどかしい思いで、自分はなぜこんなことを言い出したのだろうと怪しみながら、 「いや、それはどうでもいい」  と話を打切った。ほんのしばらく沈黙があってから、電話の相手は、 「では、お待ちしていますから」  と沈んだ声で頼み、上原はそれに対して、 「ええ、すぐにゆきますよ」  と答えた。そのとき彼は、二月前のあの「生き甲斐」という言葉は冗談ではなかった、と反省していたのである。人間はふざけた口調でまじめなことを言う場合もある。それは六十九年間に何度も体験していることなのに、今度もまた気がつかなかったのではないだろうか? 電話が、小さな脆《もろ》い音を立てて切れる。上原は、入歯でそっと下唇を噛みながら受話器を置いた。  タクシーは、よく晴れた秋の日曜日の通りを走ってゆく。大きな枯葉が一つ、舗道の日向《ひなた》から日蔭へすべって行った。上原はそれへ視線を投げ、枯葉ではなく紙袋であることを認めた。医者は眼をつむり、もう一度、しかし本当に女と寝ることだけが生き甲斐だという人生はあるものだろうかと考えた。あり得る——それが答だった。 「このへんでいいです」  という少年の声で、上原は眼をあけ、 「左へ寄せてくれたまえ。一人、降りるから」  と運転手に言った。自動車が止り、また走りだす。 「西落合へ」  院長は多比良の邸へゆく道筋を説明した。上原はそのとき、これはいつか、ずっと昔に経験したこととよく似ていると考え、かすかに眉をひそめた。四十年前の思い出がゆるやかに訪れて来る。そうだった。あのときは藤木といっしょで、藤木の新聞社の、旗を立てている車に乗せられていた。時刻はもうすこし遅く、たそがれどきだった。昭和五年の東京の街路には、自動車がほんの僅かしか走っていない。  入社二年目の新聞記者は鳥打帽をかぶっていたし、三十二歳の上原は丹前を着て下駄をはき、往診鞄をかかえていた。新聞記者は、 「よかったですよ、上原さんがいてくれて」  と、何度も言ったことをまたくりかえした。 「三時間は経ってるわけだ。あぶないな」  と医者は言ってから、二度しか行ったことがない魚崎の家の間取りをたしかめた。藤木は独言《ひとりごと》のように呟いた。 「どうして自殺なんかするのかな。朝子さんもどうかしてるよ。生れたばかりの子供がいるんじゃないか」  その日は祭日で、上原は家にいたし、朝から読みつづけている原書がはかどったので、夜は水彩画を一枚だけ描こうかなどと思っていた。去年生れた子供をあやしていた妻が、戸口の日の丸を引っこめると言って、立ちあがりかけた。そのとき、自動車が止り、玄関が荒ら荒らしくあいて、 「上原さん! いますか? 上原さん!」  と男がどなったのである。  藤木だった。若い新聞記者は挨拶も抜きで、魚崎の妻が睡眠剤を飲んで死にかけている、いっしょに来てくれと早口で頼んだ。上原は着替えようとしたが、そんな暇はないと叱られ、丹前のままで鞄をかかえ、新聞社の自動車に乗せられた。国旗をまだ取り入れていない家がところどころにある通りを、車は進んでゆく。藤木は、魚崎が英語教育関係の講演で東北へ行っているという話をした。昼寝だとばかり思っていた女中が、ようやく気がついて医者を呼ぼうとしたが、どうしたわけか、なかなか来てくれない。心ぼそくなって、新聞社の藤木へ電話したのである。彼はデスクにも連絡を取らずに自動車に乗ったのだが、途中で上原の家に寄ることを思いついた。二人はこの春、築地小劇場で偶然に出会い、芝居がはねてからビールを飲んだことがある。上原がその勘定を持ったののお返しに、藤木が円タクで送ると言い張った。その晩の記憶を頼りに、病院づとめの医者の家を探し当てるのは、新聞記者にとってそうむずかしいことではなかったのである。  医者は、これは専門外だがと断ってから、初産婦にありがちな神経症のことをしゃべった。自殺の理由はこれだろうと想像したからである。それに、結婚してすぐ夫が留学し、帰ってくると妊娠というふうに、生活条件の変るのが早すぎたということも考えられるだろう。しかしそんなふうに彼がいろいろ推測しても、藤木は何か煮え切らない返事ばかりしている。とうとう、魚崎の家にかなり近くなってから、新聞記者はこう言った。 「それもあるかもしれない。でも、焼餅じゃないかと思うんですよ」 「焼餅? 何かあるの?」 「だって、去年から女の学校に勤めたでしょう」 「魚崎が学生と?」  上原がそう訊ねたとき、藤木は、 「ええ、ここで左。そう、このへんでいいですよ」  と運転手に言った。女中が赤ん坊を抱いて、門柱のそばに立っていた。  車が止ったとたん、鞄をかかえている丹前の男はすばやくドアをあけ、下駄で砂利を蹴とばすようにしながら家のなかへ駈けこんだ。鳥打帽の男は女中と二言三言、話をしてからあとにつづいたが、医者とは違って朝子の部屋へゆかず、玄関に近い電話で社のデスクとの連絡を取る。……  あのときは患者の生死が不明だから、ああしたのだが、今日の場合は即死ということが判っているから急ぐ必要はない。老院長はそう考えてゆっくりと車を降り、玄関へ歩いて行った。かかえている鞄は、あのとき使っていたものではない。あれは初代、そしていま持っているのは三代目なのである。丈の高い白髪の男は多比良の邸のベルを押した。誰も出て来ないし、いつもベルの音をきっかけにして聞える、犬の吠える声もない。上原は待ちながら、「生き甲斐」と心のなかで呟いてみた。  しかし、もう女と寝る楽しみがなくなったせいで多比良が自殺したという、彼の解釈は、かなり特殊な考え方だったようである。変死ではあるが解剖までは要求されなくて、死の翌日に火葬、その夜と翌晩が通夜、そして次の日の一時に葬儀ということになったのだが、上原は二日目の通夜に顔を出した。祭壇に飾られた遺影は、家族の者の好みなのか、精悍な脂ぎった感じではなく穏やかな表情のもので、上原はこういう多比良はあまり見たことがないと思った。着ている服も、上原が見たことのない派手なツイードで、これは案外、犬と遊んでいるときの写真なのかもしれない。焼香をすませてから遺族に挨拶すると、嗣子である次男(長男は小学一年生のときに死んだ)が、 「先生、お忙しいところ恐れ入りますが、ちょっと」  と、きつい顔で言う。医者はうなずき、二階へ案内された。幅の広い、よく磨きこんだ階段を昇るとき、上原は、さきに立って昇ってゆく四十三歳の男の後ろ姿を見ながら、こういう立派な後継がある男のことを羨ましく思うのは間違っている、と自分に言い聞かせた。医者は死んだ友達を羨んでいたのである。そして彼は二階の廊下を歩きながら、自分の遅生れの子と魚崎の早生れの長男とが学齢が同じで、小学校の入学のときはともかく、中学以後の入学試験のたびごとに、淡い(それとも濃い?)羨望《せんぼう》の念をいだいていたことをすばやく思い浮べ、自分の卑しさを叱っていた。  取り散らかした狭い部屋の座蒲団に、上原は坐らせられた。多比良の息子も、しきりに恐縮しながら、それとぴったり接して置かれた座蒲団に坐る。この四十男の顔立ちは母親似だが、髪は父親の四十代のころと同じように黒くて濃い。彼はまず上原にあれこれと礼を述べ、新聞記事を押える工作のほうもうまく行った、と報告した。大新聞はみな好意的に取りはからってくれたし、赤新聞が二社、嗅ぎつけて来たが、これはほんの端《はし》た金《がね》で話がついたのである。桜林堂の新しい主人は、そこまではじつににこやかで、いかにも銀座の旦那衆の一人という態度で微笑を浮べていたが、そのとき急に泪声《なみだごえ》になった。 「ねえ、先生、ぼくはくやしくって。ねえ」  上原は驚いて彼を見た。泣きだしそうにしている四十男は、試合に負けて悲しんでいる、大学の運動部員のように見えた。医者は、肉親の死に出会った者の悲しみに慣れていたので、ゆっくりと慰めの言葉を述べはじめた。だが、多比良の息子は父の死そのもの、父の自殺そのものを嘆いているのではなく、自殺したのは息子のせいだという噂に憤慨していたのである。  もちろん、死亡通知にも死亡広告にも変死ということは伏せて置いたが、真相はずいぶん早く広まったらしい。それはかまわないけれども、今日、桜林堂の経理部長が新しい主人の耳に入れた、銀座で取り沙汰されている噂は、まことに心外なものだった。たしかに数年前から息子が副社長になって実際を切りまわしているし、それに他社から引抜いた経理部長の方針で、今までの大まかな経営は改められた。社長の自由になる金が切り詰められたことも認めていい。しかし、父親がそのせいで、ケチな息子への面あてに自殺したなどと言われては、ぼくとしては本当に立つ瀬がないと、息子は愚痴をこぼしたのである。 「もう、大福帳のようなやり方では、乗り切ってゆけない時世ですから」 「そうだろうね」 「やはり合理的に」 「でも、それは君のお父さんだって判っていたことだろう」  と医者は言葉をはさんだ。 「ええ、ちゃんと納得してくれましたし、ずいぶん積極的でしたよ。経理部長の引抜きのことやなんか。やはり、先の見える人ですから」  息子は父を褒めた。自分で経営をやってみると、和菓子の店を洋菓子一本に切り替えて成功するなどというのがどんなに偉いことか判る、というのである。運がよかっただけでは決してない。口に出して言わないから、山カンで勝負したように見られがちだが、頭のなかでは綿密に計算していたにちがいない。それは親父の商売のやり方について一般に言えることではないか。第一、あの砂糖も粉もなくなった戦争のあいだを、菓子屋がとにかく乗り切ったのは、まるで神業のような気さえする。そんなふうに息子は批評した。 「それはやはり、そうだろうね」 「ええ、普通の親父だったら、なかなか子供に実権をゆずりませんよ。うちの親父は、くたびれたからじゃなくって、大改革をしなければ時代についてゆけないと考えて……それであたしに仕事をさせてくれたんだと思います。そりゃあ意見が違うことはありましたよ。でも、ようく話し合って、いちいち納得ずくで。だから、と言うと何ですが、あたしだって、ずいぶん気を配ったんです。みょうな話ですが、親父の彼女、いま二人いるんですが、これも桜林堂の社員ということにして、あたしからじかに月々の手当てを送りまして」 「ほう」  ところが世間では、父親は妾たちに金を渡せなくなり、そのことを気に病んで自殺したなどと言われているらしい。もちろん、大変な間違いだが、これはひょっとすると、一昨年の暮れに、もう一人いた妾と切れたことが誤解されたのかもしれない。しかしあれは悪い男がついていることが判っての処置で、そのときにしても、いちおう出すべきものは出してある。息子はそんなふうに、濡れ衣を晴らそうとして懸命に、しかし小声で語った。 「君の親孝行も大変だね」  と院長は友達の息子に同情した。四十男は、 「いや、先生、親孝行だなんて」  と答えてから、父の同級生という気持があるので、つい甘えてこんなことまでお話して、本当に申しわけないと詫びた。誰かに話をしないと胸のつかえが取れないと思ったのだが、事情が事情なので、ほかに話相手が見つからないというのである。上原はそれを受けて、 「噂は気にとめる必要ありませんよ。やはりあれは、年を取って男でなくなった寂しさのせいだろう」  と、後半は独言のように言ったのだが、そのとき多比良の息子は不審そうな顔をした。そして、親父はまだ男として終っていなかったと、自信のある口調で言い張るのである。ただし、その論拠が何なのかは、いっこう明かそうとしないけれども。上原は二月前の往診のときの模様を説明したが、息子はそれに対しても、 「先生にはそう申し上げたかもしれませんが」  などと言うだけで相手にしない。院長はやがて、精力減退に悩む自分(上原)を旧友(多比良)が慰めようとして嘘をついたのだ、と考えられていることに気がついて当惑した。彼はやむを得ず、 「じゃあ、君の考えている理由は何です?」  と訊ねてみた。すると友達の息子はあわてて、それは性欲のこともあるかもしれないし、金が以前ほど自由にならないことも多少は響いていたかもしれぬがと、今まで述べたこととはかなり矛盾したことを口にし、しかし本当の原因はもっとぼんやりしたもので、小さな理由がいろいろ寄り集った結果こういうことになったのではないか、と答える。上原はうなずいた。息子はそれに勢いを得た様子で、 「まあ、そういうことです」  と軽く眼をつむってから、 「何か趣味でもあれば、気がまぎれて、よかったんでしょうね」  と溜息《ためいき》をついた。 「猟のほうもやめてしまいましたし」 「絵がうまかった」  と院長は呟いて、 「もともと、君のお父さんとぼくとは、中学生のときの絵の仲間でしてね。二人とも……」  画家になりたいと思っていた、というところを、上原はすこし照れて言いそびれた。息子は、以前、製菓もやっていたころは、そのせいもあってデコレーション・ケーキのデザインに厄介な注文を出すので職人が厭がったという話を、いかにもなつかしそうに披露した。そして、前に父親の描いたおかしな絵を見せられたことがあると言い(「絵なんてものじゃありませんよ、まあ、子供のいたずら描きですね。水彩です」)、しかし父はその十枚ばかりを、彼に見せたあとで焼き捨ててしまったらしい(「人に見られちゃ困るようなものでしたから」)と語った。院長は、亡友の絵の趣味が、鑑賞力さえ子供に伝わっていないことを嘆かわしく思い、多比良のクロッキーのよさを一言しゃべりたいという気が動いていた。しかし彼が、相手に通じるような説明を考えているうちに、多比良の息子は薄ら笑いを浮べながら、 「あれでいっぱし、芸術家気取りでしてね。自分の絵が駄目なことがよく判ったから焼き捨てる、もう絵は描かない、なんて申しまして。いや、どうも」 「ほう」 「西洋の画家の絵を見て、判ったんだそうです。展覧会で。何しろ、専門家と張り合う気でいるんですから」 「……」  そのとき女中が呼びに来たので、桜林堂の副社長はすぐにゆくと大きな声で答え、 「先生、車でお送りさせますから」  と言った。彼らは立ちあがった。多比良の息子は、部屋を出ないうちに、 「おかげで気分がすこし晴れました」  と軽くお辞儀をし、それから障子をあけながら、 「しかし、書き置きぐらい残してくれといてもいいのに」  と呟いた。それは明らかに、遺書さえあれば自分の親孝行は証明されると信じている様子であった。  銀座の菓子屋の若主人(今はもう主人と呼んでもいいわけだが)との、狭くて乱雑な部屋での会話は、その夜、上原を長いあいだ考えこませた。帰りの車のなかでも、家に戻ってからも、院長はあれこれともの思いに耽《ふけ》ったし、妻がやすんでからは、茶の間で電気ストーブをつけ、その、喘息《ぜんそく》患者の息づかいのような小さな音にときどき聞き耳を立てながら、卓袱台の前に坐りこんでいた。  老人の心を占めていたのは、一つは、多比良が死んだのは自分のせいではないか、自分があのときロダンの素描集さえ見せなければ、彼はたとえ実際に女と寝ることはできなくても、待合に行ってクロッキーを描き、その出来ばえを生き甲斐にして楽しんでいたのではないか、という疑惑である。ロダンという名は出なかったし、画集ではなく展覧会の絵という話だった。しかしあの髪の黒々とした四十男は、きっとロダンを知らないのだろう。それに息子は十枚の絵と言ったが、あれはおそらく百枚のうちからよりすぐった十枚にちがいないし、その十枚は、たぶん、医者である友達が選んだ十枚と、かなり重なり合っているのではないだろうか? 九十枚はとうに焼いてあったのだろう。多比良にクロッキーをやめさせたのが、ロダンの画集であることは確実なように思われた。  もちろん、だからと言って、一冊の画集が彼を自殺させる直接の動機だということにはならない。それに、どんなに絵が好きで、子供のころから画家志望だったにせよ、もうあの年では、結局、絵は遊びにすぎなかったはずである。だからこそ、寝たあとでしか描かないわけだし、関係した女たちの陰毛をアルバムに貼りつけることの代りのような役目に、水彩画を使っていたわけだ。遊びそのものが生き甲斐という人生はあるだろう。しかし多比良にとって、水彩画は、やはり大事な遊びの付属品のようなものにすぎなかったのではないか。  何度目かにそこまで考えたとき、老院長は夜ふけの静けさのなかで、多比良の息子を嘲って、そっと、そして短く、笑い声を立てた。彼は父親が男としてまだ終っていないと言い張ったけれども、あの情報の出所はきっと妾たちにちがいない。彼女らは息子から手当てをもらっている。とすれば、傭《やと》い主《ぬし》から訊ねられたとき、自分たちの存在理由を否定するようなことは口にするはずがないのである。六十九歳の男はまた低く笑った。  しかしそのとき、新しい疑惑が不意に浮びあがって来て、上原を驚かせた。多比良がクロッキーをやめたのはいつのことか判らないが、その動機は明らかにロダンを見せられたことである。(あのすぐあとだろうか? それともごく最近だろうか?)そのことは、どうやら疑う余地がない。彼はロダンの絵を見て、自分の絵にすっかり厭気がさした。しかし厭気がさして絵をやめると、それに伴い、絵を描く直前におこなわれていた女との関係までむずかしくなったのではないか、という疑念が上原を襲ったのである。ひょっとすると多比良は、ずいぶん長い年月、これが終ってからスケッチをすると考えることで、自分を興奮させていたのではないだろうか? そういうことは十分あり得るはずだ。何しろ心理的な要素は、あの種のことには非常に大きいのだから。つまり、その興奮があればこそ、彼は芸者たちと寝ることができたのではないだろうか? そして、芸者と寝るからこそ、自分はまだ元気だという自己暗示によって、妾たちとも寝ることができたのではないか? それとも、妾たちとのことのあとでもクロッキーを描いていた、とも考えられるけれども。クロッキーをやめたとき、そういう興奮の材料は彼から失われ、男として急速に衰えて行ったのではないだろうか?  上原は自分を責めないようにしようと努めた。それはいちおう易しいことであった。人間は年をとれば性欲が衰える。「性器の摩擦と射精」を求めなくなるし、求めてもむずかしくなる。それは自然なことで、自然に従うのはよく、逆らうのはよくない。たとえばクロッキーというような何か別のもので、欲望を刺戟するのは、媚薬《びやく》を使うのと同じように不自然なことである。自分はただその不自然を(しかも故意にではなく)正したにすぎない。ほぼそのような趣旨のストイックな弁明が、上原にはあったのである。ただし、そう自分に言い聞かせたところで、まだ何か不快な翳《かげ》が心を去らなかったことは事実だけれども。  その不快のなかには、多比良の死の原因が、一部分、自分と関係があるかもしれないということのほかに、多比良の死によって自分が魅惑されているという感じもあった。つまり彼は、一方では友人の自殺を讃美しながら、他方では、讃美しているその自分に気づいて当惑していたのである。多比良の自殺への尊敬は、彼の息子の解釈を聞いたとき上原の心をはっきりと襲ったのだが、それを意識にとめてみると、そういう気持は最初からあったような気がしてくる。あの電話を受けた瞬間から、その一種の讃美の思いはあって、しかしそれを単なる衝撃として、いわば誤解して感じていたのではないか、という気がしてくる。そして自殺を肯定している自分というのは、上原にとって極めて不快なものであった。  上原が多比良の息子の話を聞いていて感じた、いちばん核心のことは、多比良は自分の時代が終ったと考えて、その認識に従ったのではないか、ということであった。終ったのは単にセックスのことだけではない。仕事の面でも彼の時代は終っていた。たとえば、他社から引抜いた、社長の出費に対しても遠慮しない経理部長を使いこなすようなことは、もう彼にはできないし、その方法を新しく考え、それに慣れてゆくだけの気力もなかった。つまり息子の時代になっていたのである。そして成人した息子がそばにいるという事実は、そのことを多比良にいよいよはっきりと認めさせる結果になるだろう。(上原はここで、そうすると二月前のあの夜、酔った多比良が「その点、先生はいいや」と言ったのは、息子のいない男への羨望のあらわれだったろうか、などと怪しんでみた。)とにかく、彼の時代はもう終っていた。それならば、熟しきったオリーヴの実なのに、何かの偶然によって枝にへばりついているよりも、自分の意志でその偶然を廃棄することのほうが正しいのではないか。倫理的なのではないか。菓子屋の主人が死んだ犬のそばで、足の指で引金を引いたとき、そのことによって自然の理法は眩しいくらい堂々と完成された——そう考えるべきなのではないか。上原はそういう論理の展開に苦しめられていたのである。  その夜、電気ストーブのそばに坐りこんでいる上原の意識には、さまざまのイメージが奇妙にゆるやかに飛び翔《か》けていた。水彩絵具で塗られた女たちの下半身、オリーヴの実、引金と足の指。いや、もう一つ、白い角封筒があって、それがあの殉職した新聞記者、藤木の面影と二重写しになる。  大学の医局で、藤木はまるい小さな椅子に腰かけていた。上原も同じ、まるい小さな椅子に腰かけている。二人の前には傷だらけの大きなテーブルがあった。思い出したように新聞記者が言った。 「博士になったんですってね。おめでとうございます」 「ありがとう。掲示で見たの?」 「ええ、ついさっき。ブン屋の心得なんですよ、まず掲示を読めというのは」  彼はそう言って笑ってから、 「でも、論文の題はチンプンカンプンだった」  と言い添えた。三十二歳の医学博士は微笑しただけで、もちろん自分の学位論文の説明をしようとはしない。藤木が煙草を喫いながら言った。 「つまり遺書はなかった。そういうことになりますね」 「そう」 「どうして書かなかったのかな。朝子さんはかなり、筆まめなたちらしいんですよ。ロンドンには毎週のように手紙が届いたそうです。だから書き置きを残すはず——とも言えないが」 「そうね」  と上原は答え、さっきからの自分の返事はみな短すぎると反省した。藤木は、口の端で煙草をくわえたまましゃべるという、新聞記者らしい話し方で言った。 「上原さんに訊いても仕方がないことなんですがね。でも、あんまり悩んでたから。遺書ぐらい書いて死んだっていいじゃないか、なんて」  昨夜、彼が宿直で社にいると、街に出ている魚崎から電話がかかって来て、いくら断っても承知しない。やむを得ずその小料理屋へ行って、かなりのあいだ酒の相手をした。そのとき英文学者は、妻はなぜ遺書も残さないで死んだのだろうと、何度もくりかえしたのだそうである。 「四十九日が過ぎて、いよいよ寂しくなったらしい。朝子さんの実家とも、厭なことがあったようです」  と藤木は報告した。 「かわいそうだけれど、仕方がないでしょう。本人が我慢するしかない」 「お会いになって、慰めてやってもらえませんか?」 「会っても無駄でしょうね。もうすこし落ちついてからでなければ」  僅かな沈黙があってから、藤木は、 「やはりストアですね、上原さんは」  と言ったが、その口調には非難はこもっていないし、医者も黙っている。新聞記者は煙草を灰皿に押しつぶして消してから、結論のように言った。 「書き置きはなかったわけですね。最初に発見した女中も、なかったと言ってる。次にはいって行った上原さんも、その次のぼくも、見なかった。本当は遺書があったのに、ごったがえしているうちにどこかへ行った——そう考えてみたんですが、これはやはりおかしいですよね」 「うん、それはおかしい」  そのとき看護婦がはいって来て、 「上原先生、ライスカレーが来ましたけど、そちらへお持ちしましょうか?」  と大声で訊ね、それを汐《しお》に、藤木は鳥打帽をかぶって去った。彼とはそれ以後もう会っていないが、三年後(つまり昭和八年である。この年の夏、藤木は上海で死んだのだ)の正月、台湾で受取った年賀状の隅には、 [#1字下げ] 御無沙汰して居ります。今でも時々思い出して見ることがあります。  と走り書きしてあった。何を思い出していたのか? どうしてあんな曖昧な文面を、新聞記者が書いたのだろうか?  三十年以上ものあいだ心にかかっているこの問に対しては、もちろん答は出来ていた。しかし、その答に対する反駁も出来ていた。老院長は何度か、その答と反論とを頭のなかで戦わせたあげく、明日は院長診察日だし一時の葬式にゆかなければならないのだからと考えて、電気ストーブを消し、立ちあがった。足が冷えたし、腰が軋《きし》むように痛い。彼はゆっくりと歩いて洗面所へ行った。そして丁寧に歯をみがきながら、洗面所の壁に釘のさきらしいもので彫ってある、ゆがんだ、そして大きな△を見た。死んだ息子がまだ小さかったころの悪戯《いたずら》である。その黒ずんだ、すりへっている図形は、毎日のように見なれているもので、いわば日常の一部分なのだが、今それは何か特別の意味のある形のように思われてくる。彼はそれを螢光燈の光でみつめ、息子はこの掻き傷を螢光燈では見たことが一度もなかったわけだという、じつに瑣末《さまつ》なことに新しく思い当った。洗面所は、息子が死んだ翌年までは、普通の(今となっては旧式の)黄ばんだ電燈の光で照らされていたのである。歯をみがき終っても、上原はまだ壁の△を見ていた。そのとき院長は、もし自分の推測が間違っていて、多比良が息子への面あてで自殺したのだとしても、それからまた、自分は息子がいないという「幸運」のせいで生きる意志を持っているのだとしても、あの男はとにかく子孫を残したのだと考えていた。  息子の死後、上原は具体的な子のことよりも、もっと漠然とした子孫のことを思うようになっていた。これはひょっとすると、彼の結婚披露宴のときに主任教授が言った、「結婚の目的は、正味のところ、児孫を繁殖せしめることであります」という、いかにも医者らしい言葉が、その「繁殖」の望みが絶えてから強く意識されたのかもしれない。「正味のところ」という言いまわしは、あの披露宴の席では滑稽な感じがしたが、今ではひどく冷酷な表現として思い出される。上原はときどき、もしあの息子が生きていれば(あの子は無能で凡庸だけれどもしかし)ひょっとすると優秀な子孫が生れるかもしれなかったと考えてみては、すぐにそのたわいもない空想を自分で嘲っていたのだ。代を下るにつれて、もっともっと劣悪な男が、女が、生れるかもしれない。そうでないという保証はどこにもないではないか。 「児孫……」  上原は声に出してそう呟き、それからいつものように心のなかで自分を笑った。しかしそのとき、まるで視線をとめている壁の三角形のせいのようにして、不意に、マルクス・アウレリウスのことが彼の心に浮んだ。あのローマの哲学者があんなにしょっちゅう「死後の名声」という考え方を批判しているのは、つまりその考え方を重視しているのは、あれは皇帝だからで(院長は、ここまでは前に考えたことがあった)、皇帝でも将軍でもない自分は、その名声に代るものとして子孫を求めているのではないか。上原はそういう感想に襲われたのである。  足の冷えが膝まで上って来たし、腰の痛みも増した。院長は寝室へゆき、仄暗い常夜燈を頼りにして寝間着に着替えた。そして、一メートルほどの間隔を置いて妻のシングルのベッドと並んでいる、自分のダブル・ベッドにはいった。寝具を洋風にしたのは台湾時代のことで、台湾での四年間に身についた習慣のうち、これだけはまだ改めずにいるのである。妻が何か言ったが、上原はそれには答えないで、電気の足温器を足で探りあて、腰のあたりに当てがった。扁平な暖いものは冷えた体に快かった。老人は、今年は例年よりも寒さが早く訪れたのか、それとも自分の体がこれだけ老衰したのかと迷って、たぶん後者が正しい答なのだろうと推測した。  妻は寝息を立てて眠っている。六十歳の女にとって、週一度だけ家政婦が来て手伝うのではやはり疲れるかもしれないが、家事が運動になることは確かであった。闇に眼が慣れてくる。しかし上原には、壁に向いている妻の寝顔は見えない。夫に背を向けて眠るのは、新婚当時からの妻の癖であった。彼は眼をつむり、眠ろうと試みたけれども、もしこの女と結婚していなければ……、もし別の女と結婚していれば……という想像が彼の就眠を妨げた。  上原がこう想像してみるのは、あながち根拠のないことではなかった。魚崎が外遊に出かけた大正の終りの年、ほぼ同じ時期に、上原には縁談が二つ持ちこまれていたのである。一つは教授があいだに立っている話で、この縁談のほうの娘は非常な美人である。上原はその娘と、正式な見合いの席で、つまりこれが見合いであることを双方が承知した上で、引き合わせられ、その後も数回会うように事を運ばれた。会うごとに娘は美しさを増して、なるほど二十歳前の美人というものはこういうものかと彼は感心したが、しかしあまり賢い女でないことも明らかになった。もう一つは叔父の友人の口ききで、ただしその開業医は新しがり屋だったから、二人を自分の家で、どちらにも見合いだということを教えないで会わせてから、その縁談をすすめようとした。この娘は十人並であったが、頭は非常によいことが最初から判ったし、叔父の友人夫婦が彼らを芝居見物に誘って、途中でわざと帰って行ったりしたあとの態度なども申し分なかった。どちらも一長一短があるので、若い上原は迷いつづけた。そして滑稽なことには、自分が双方と、二、三度会っているということを(ただしどちらとも、手を握ったことさえないのに)これは色魔めいた不徳義な行為ではないかとひそかに悩んだりした。  結局、教授のところへ断りにゆき、理由を訊ねられて、もう一つの縁談のほうの娘、つまり現在の妻について説明すると、教授は彼の判断に賛成した。自分の快楽の相手を選ぶというのではなく、自分の子供の母親を選ぶという方針はじつに正しい。教授はそういう率直な言葉づかいで意見を述べ、優生学的に言っても、君の結婚によって優秀な子供が生れる確率は極めて高いと励ましてくれた。教授は正しかったわけである。確率は極めて高い、としか言わなかったのだから。  だから逆に言えば、もしあの美しい娘と結婚していても、案外、立派な知識人になる、なるであろう、息子が生れなかったとは限らない。たとえば、いまアメリカの大学で心理学を教えている、魚崎の長男のような。あるいは、このあいだの日曜日に診察してもらいに来た男の子、後藤正也のような。しかし上原は、そこまで考えてから、また自分の妄想を笑った。魚崎の長男の職業や地位は判っている。しかし性格については何も知らないではないか。それから後藤正也についても、ほとんど何も知らないと言うほうがいいし、彼の将来ははなはだしく不確かではないか。上原は自分を戒めた。羨望ということがまず恥ずべき心理である。そして、確実でない情報によって他人を羨むのは、軽率というもう一つの悪徳をそれに重ね合わせることになるだろう。  上原は眠ろうと努め、明日は院長診察日だし一時からは多比良の葬儀だと、改めて自分に言い聞かせた。彼は眠りのなかへ、自分がほんのすこし落ちてゆくのを意識した。ただ、その浅い落ち方はあまり快くなく、厭らしい無数の綱で妨げられ引き戻される感じがあったけれども。しかし、こうしてとにかく眠ることができる。彼は自分をその落ちてゆくことへと委ねながら、ぼんやりと思った。真夜中に目覚めて、酒の力を借りるようなことにならなければいいが。だが、そのとき老人は不意に、一つのことに思い当って愕然《がくぜん》としたのである。  上原は結婚して間もないころ、東海道線の食堂車で、英文科で魚崎の一級上だったという、東京の七年制高等学校の若い教授と、まったく偶然に知り合いになったことがある。魚崎のことや彼の妻のことなど話しているうちに、相手は、魚崎の細君もなかなかの美人だが、自分の同級生である金持の息子が、あれとは段違いの美女と結婚したので残念でたまらないと、笑いながら言った。 「金持の息子というのはたいてい馬鹿なもんですが、こいつは秀才です。あの野郎、高等学校では、ぼくよりも英語ができましたからね」  よほど親しい友達らしく、英語の教授はそんな言葉を使って言う。そして、父の会社に勤めることを嫌って、さる大会社の社員になった「あの野郎」を褒めた。 「もちろん、しばらくしたら親父の会社の重役になるんでしょう」 「なるほど。見習いというわけですね」  教授はまたビールを注文してから、 「秀才で金があって美女を擁するというのは、癪にさわりますなあ」  と大声で笑い、友人の妻の顔立ちをこまかに描写した。そして上原には、その噂の美女は、自分の妻になっていたかもしれぬ女だということがただちに推測できたのである。これは、やがて大学の英文科の教授になる語り手が、表現力に恵まれていたせいだろうか? それとも聞き手の側に、美人と聞けばまずあの娘を連想する習慣が出来あがっていたせいだろうか? 医者は、その人妻の旧姓と名前を言い、英文学者を驚かした。彼は驚きながら、一体どうして知っているのかと訊ねた。医者は、一度だけ教授の家で偶然に会い、紹介されたのだと嘘をついた。こうして二人の男は、お互いに残念なことをしましたなと笑いながら、ビールを飲みほしたのである。  この情報はかなりの衝撃を上原に与えた。彼は京都での学会のあいだじゅう、その娘の、うるおいのある白い肌を、ほんのすこし大きすぎるという者もある眼を、そして形のととのった赤い唇を、しょっちゅう思い浮べていたのだ。しかし、次に彼女の噂を耳にしたときには、あいだに戦争をはさんだ長い歳月の経過のせいだろうか、しばらく淡い感慨に耽っただけにすぎない。それは戦後まもないころ厚生省の役人が教えてくれた、まったくの風の便りである。戦争中、彼女の夫は軍部に要求されて南方の司政官になったが、病気のため帰国してあの八月に死んだ。そのせいで、戦争犯罪人であることを免れたのは非常な幸運だという、ただそれだけの話なのである。彼女自身のことに関しては、役人は何も知らなかった。  そして、その次はもっとあっさりしていた。それは後藤正也の母が結婚してから一年くらいあとのことで、子供のころから診ているその娘の夫になった銀行員が、じつはあの美貌の女の甥であるということを院長は知ったのである。 「お元気ですか? 伯母様は」  と上原は訊ねた。すると、まだ娘のような若い人妻は、 「ええ、とっても。あたくしもあんな身分になりたいくらい」  と答える。上原は笑ってから、二十年前に東海道線の食堂車で話した、彼女と自分との関係についての嘘をもう一度くりかえしたのだが、そのときには、それが嘘よりはむしろ真実に近いような感じさえした。だが、彼はいま秋の夜ふけのなかで、足温器の暖さを爪さきで横へずらしながら、もういちど反省してみる。このあいだ自分があれほど、後藤正也という男の子に惹かれたのは、彼の大伯母が彼女であるせいではないだろうか? 顔立ちは……いくぶん似ているような気がする。なにぶん遠い昔のことなので、すっかり印象がぼやけてしまったけれども。彼女と血のつながりのある少年を、自分の孫あるいは息子のように感じて喜んでいたのは、つまり自分が長いあいだ意識の底で夢みていた、あの美貌の娘に対する欲求の、あらわになった形ではないだろうか?     3  その分析は翌日になると、まったく否定された。あれは友達が死んだせいで衝撃を受けた、疲れている心が、半ば夢のような状態でおかしなことを思いついただけである。無意識という概念が時として有効性を持つ仮説であることは認めるが、それに過大な役割りを与えるのは危険である。潜在意識によって人生をことごとく説明しようとするのは興味本位の態度だし、第一、不健全だと言わなければならない。明るい日ざしのなかで上原はそう考えた。  丈の高い老院長が、家から病院までのかなりの道のりを大股に、そして足早に歩いてゆくと、お辞儀をする人がずいぶん多い。彼がこの病院へ来たのが昭和十年で、現在のところへ家を建てたのはその翌年、息子が小学校にはいった年だから、このへん一帯に顔が売れているのは当然なのである。病院にかなり近づいたころ、院長は老婆に挨拶された。彼は多比良の妻のことを思い浮べ、病状はどんな具合だろうかと案じたのだが、病院の構内へはいりながら、ふと、自分が昨夜、もし別の女と結婚していればという仮定を立てたのは多比良の妻の言葉が作用していたのかもしれないと思った。死んだ夫より二つ年下の、低血圧の妻は、昨日、西落合の近くのある病院の個室で、多比良の妻は別にわたしじゃなくてもよかったんですね、と呟いたのだ。  事務長が彼を見かけて、小走りに寄って来た。その瞬間から、院長としての、医者としての、彼の勤務がはじまる。上原は院長としての雑務に、そして診察に、十二時半まで没頭して、院長診祭日には先生は一段と若々しく見えるという、看護婦たちのあいだでの冗談が正しいことを証明した。  多比良の妻の入院は、彼女が夫の死のせいで失神したためである。もともと血圧が低く、それに心臓が弱っているのだから、これは納得のゆくことかもしれない。しかし、彼女を失神させた本当の理由が、夫の自殺そのものかどうかは、すこぶる疑わしいだろう。上原は、そういう単純な理由によるものではないと考えていた。たとえば、多比良の妻がそのことを知ったのは幕間《まくあい》の場内アナウンスで呼び出されてなのだが、歌舞伎座から帰って来る途中もしっかりしていて、気を失いそうな様子はいっこうになかった、と嫁は言っているのである。  多比良の妻が芝居見物に行っていることを、上原が知ったのは、応接間で死体を見てしばらくしてからであった。そして、菓子屋の主人の自殺には、問題になる点はなかった。明らかに、床《ゆか》に坐りこんでソファによりかかり、銃口を口にくわえたものらしい。両手で銃身をささえたにちがいないし、引金は足の指で引いたものと思われる。医者と同い年の男は、ソファの前で、絨毯《じゆうたん》の青い花の模様に左頬をつけて伏していたし、その青い花のところには猟銃の銃口が、それからかなり隔たった赤い三角形には床尾《しようび》があった。銃弾は髪の薄い頭の後頭部に抜けている。弾口の周囲の髪は焼けこげていた。そして、血しぶきはわずかばかり、男のスポーツ・シャツとセーターを汚している。  上原は多比良の死を確認して、運転手に目くばせした。運転手は大きくうなずいた。 「警察には?」 「はあ、電話はしてありますが、まだ……」 「奥さんは?」 「若奥様とごいっしょに歌舞伎へ。さっき電話をしましたが、もうしばらく経たないと幕間にならないそうです。座席の番号が判りませんので」  たぶん多比良は一人きりになるため、妻を芝居へゆかせたのだろう。やはり、周到に準備した自殺だったわけだ。上原はもう一度うなずいてからテーブルの上を見たが、遺書らしいものは見当らない。応接間にではなく、彼の部屋にあるかもしれぬ、それとも書かなかったかもしれぬ、と医師は思った。運転手は、自分ひとりで応対していることを謝《あやま》るように、もじもじしながら言った。 「若旦那は、いま店のほうで手分けして探しておりますが、どうにも連絡がつかなくて」 「ほう」  そのとき女中が、ぬるま湯のはいっている洗面器とタオルを持ってきて、テーブルに置いた。医者は手を洗いながら部屋の隅を見て、そこに異様なものがあることに気づいた。毛布ではなかった。犬が倒れていた。多比良はまず飼犬を射殺して、それから死んだのである。首環につけた革紐のもう一つの端は、安楽椅子の足に縛ってあった。 「かわいがっている犬でしたから」  と運転手は言って、それから無表情なまま、 「わたしでも世話はできたと思いますが」  と低い声で主人の処置を非難した。そして、犬の死骸を片付けようかと相談したが、上原は、やはりこのままにしておくほうがよかろうと答えた。犬の血や何かのせいで、かえって面倒なことになってはいけないと案じたのである。  そのことを彼はあとで悔むようになる。たとえ運転手の言うとおりにしていても、犬が射殺されたことはもちろん多比良の妻にすぐ知れたろうが、それでも夫の死体の近くにある犬の死体をまのあたりに見るのでなければ、つまり話に聞くだけならば、あれほど刺戟は強くなかったであろう。夫が犬と心中《ヽヽ》したというふうには感じなかったかもしれない。事実、その直前までは取り乱した様子はいっこうなかったのにと、医者はそのときの情景を何度も想い起すことになった。多比良の妻は、嫁にも女中にも助けを借りないで、落ちついた態度で歩いて来たし、まず上原に会釈してから、死んだ夫のそばに坐った。手にしていたハンドバッグと芝居の番付は、そっと絨毯の上に置かれる。未亡人は合掌して頭を垂れ、それからもういちど夫を見た。上原はこのとき、ずいぶんしっかりしていると安心した。しかし、彼女はやがて犬の死体に気づき、その茶いろいものをじっと見つめてから、ハンドバッグと芝居の番付の上に倒れたのである。  告別式の帰りに上原は、待っていてくれた魚崎と歩きながら、未亡人は夫の急死に衝撃を受けて卒倒し、いま西落合の近くの病院にいると語った。多比良の妻を見かけなかったがと、英文学者が不審そうな声を出したからである。上原は、いま受取ったばかりの香奠返《こうでんがえ》しの包みをちょっと振ってから、たぶん今日あたりはべッドの上に起きあがって髪をすいていることだろう、もう二、三日で退院する、別に案じるほどのことはないと、それだけを説明した。昨日、病室で未亡人が口走った、「どうして|わたしは《ヽヽヽヽ》置き去りにされたんでしょう」という言葉から推して、明らかに犬に嫉妬しての失神だということも、犬が射殺されたことも、いや、多比良の死が自殺だということすら口にしない。医者は、他人の秘密を洩らさぬことに慣れていた。  しかし、香奠返しを手にして歩いているもう一人の老人は、昔の同級生が自殺したことを知っていたのである。彼はそのことを言って上原を驚かしてから、事情を説明した。魚崎はすこし早目に寺に着いたので、墓地のなかをのんびり散歩していたのである(「勤めがなくなると、どうしても運動不足になるからね。いい機会だと思って」)。すると、墓石と卒塔婆《そとば》の列の向うを、同じように散歩している二人づれの女がいる。その話声はときどき聞き取れた。「桜林堂さん……」という言葉が耳にはいったので、銀座の商家のおかみさんたちかなどと思っていると、一方が、「鉄砲でズドン」と大きな声を出し、相手が、「こわいわねえ」といかにもこわそうに言う。そのとき魚崎は、あの虎狩りの写真をすばやく思い出し、一切を察していたのだ。しかし、彼が上原を驚かしたのはそれだけではない。 「お菓子を作るのを、息子がよそに任せたのが理由らしいね」  と魚崎は言ったのだ。 「ほう」 「立ち聞きの名人みたいで気がさすが、何しろおしゃべりな女たちでね。自然に……」  と女子大学の前学長が言いわけをするのを、院長は笑って、 「耳が遠くなっていない、というわけだ。いいじゃないか」  とからかった。魚崎も嬉しそうに笑い声を立てた。そして医者が、 「そういうこともあるかもしれないね。企業合理化なんて威張っていたけれど」  と答えると、英文学者は、 「じゃあ、上原はどう思う? いや、もちろん何だよ、もし、職業上の……」  院長は、 「これは医者としてのぼくにじゃなく、友達としてのぼくにしゃべったことだから、差支えないと思うが」  と断ってから、 「男の機能が駄目になったと言って、寂しがってたからね。そのせいじゃないか。想像だがね」  と意見を述べた。そのとき二人は地下鉄の乗り場に近い、喫茶店の前にいた。彼らはその店にはいって、紅茶を注文した。魚崎は、官立の女子大の教授を停年でやめて私立の女子大の教授になってから、ごく短期間アメリカへ旅行したときの紅茶の味をけなし、四十年前のロンドンの紅茶を褒めた。上原は台湾にいたころ毎朝飲んだシナ茶の話をした。  それから英文学者は、すると多比良はついこのあいだまで現役だったわけかと感心し、医者は、知的労働者は早く退役になるのだと、友達を(そして自分を)慰めた。もっとも彼は、性の楽しみがないことを寂しく思う反面、以前と違ってそういう欲求に悩まされることがないのを気楽に感じて、喜んでいるふしもあるのだけれども。それゆえ、 「多比良は熱心だったからな」  という彼の呟きには、むしろ憐みの口調のほうが強かったかもしれない。しかし魚崎はそれを、羨望の言葉として取ったようである。彼は、下の娘が銀座の洋服屋の息子と恋愛したので、仲に立ってもらうため、何十年ぶりかで多比良に会ったときの話をして、 「ひどいよ、あいつは。いや、縁談のほうはうまく話をつけてくれたし、媒酌まで引受けてくれましたがね。君の女子大学の学生を紹介してくれなんて、真顔で頼むんだから。学長を|ぽ《ピ》|んびき《ンプ》にしようとしている」  と言ってから、 「でも、ああいう奔放な、ちっとも遠慮しない人生というのもいいね」  と批評した。それは上原の言葉を誤解した上で同調し、そういう形で、問わず語りのうちに多比良を羨んでいる言葉のように聞えた。 「じゃあ、君は遠慮したのかい?」 「遠慮というと何だが」  と魚崎はすこしためらってから、 「しましたね。何しろ先《せん》の家内を死なせているから。あの事件の残務整理を、ずっとやって来たような気がする。いま振返ってみると、じつにへんな人生だ。本当のことを言えば、女房に自殺された男が女子大学の学長になるというのも、おかしな話だ。成り行きでそうなったけれども」  上原は、魚崎が漠然と予定していた人生というのはどういうものだったろう、と考えた。もし妻が自殺せず、もし自分が母校の英文科の教授になり、停年後は女子大学の学長というむやみに雑務の多い地位にすえられて健康をそこねることがなかったら、そしてその結果、随筆集と英語教科書の代りに、昔から言っていた英語で書くライフワーク(コールリッジ? ブラウニング?)を完成できたら——それでも魚崎は「へんな人生」として回顧するだろうか? もちろん、順調に事が運ばないのが人生だし、そのせいでかえっていいこともある。妻の死という事件にしても、この男に不幸だけをもたらしたとは言えないかもしれない。上原は戦後だいぶ経ってから、学士会館でのある結婚披露宴で、魚崎の一級上のあの英文学者と同席したことがあって、会が終ってからロビーで四方山話《よもやまばなし》をした。そのとき、魚崎に勝って(とすくなくとも人々は思っている)母校の助教授になり、教授に進んだこの男は、二人の共通の友人の噂になると、むしろあの事件は好結果をもたらしたという、むごいと言えばむごい感想を述べたのである。あの以前の魚崎は初期のイェーツの詩に溺れていた(「後期のイェーツというのは偉いんですがね。初期はどうも」)。そういう甘い感傷的な文学趣味から抜け出したのは妻の死という悲惨によってである、と言ったのだ。  ウェイトレスがテレビをかけた。遠くの隅でテレビの画面が、黒と青っぽい白とのまだらを作った。上原が、君の一級上のあの教授はどうしていると訊ねると、去年の暮れに卒中で死んだと魚崎は答え、おかげで、二人で共編の高校用英語教科書の改訂が自分ひとりの肩にかぶさって閉口した、と顔をしかめた。話は病気のことに移り、上原は体の具合について訊ねた。魚崎は、近頃は血圧のほうはいいようだが、階段の昇り降りがひどく息ぎれして辛いと答え、じつはさっきからこうしているのも、半分は、地下鉄の階段を降りるのが厭だからだ、と苦笑しながら言い添えた。院長は、彼が紹介した若い主治医の診断はどうなのかと確めてから、あの男の見立てなら信頼できると改めて保証した。そのとき、魚崎はポケットからのろのろと煙草を出し、喫おうか喫うまいかと思案しはじめた。十本入りの箱のなかには、九本が白く細くきれいに並んで、その持主を誘惑しようとしている。彼の手は小さな灰皿のなかの小さなマッチへ伸びたが、しかしマッチを手にしても、前学長はまだ主治医の言いつけに逆らう決心がつかないでいた。かつては洋行帰りの美男として、女子専門学校の学生たちに人気のあった男が、頭の両脇と後ろに灰いろの髪がある、禿頭の老人に変り、頭、顔、頸の、乾いた感じの皮膚をたるませて、一本の煙草のことでこんなに迷っている。上原は、自分の体もまったく同じだけの時間を生きてきたのだから、ほぼ同じような変り方をしているにちがいないと考えた。  とうとう魚崎は煙草に火をつけ、うまそうに煙を吐いてから、 「しかしヒロウイックだね」  と言った。 「……?」 「いや、多比良のこと。快楽が味わえない人間は無意味な存在だと考えて自殺するなんて、やはり、ヒロウイックだ。ああいう単純な男だから、ヒロウイックになれたんだろうけれど」 「そうかい?」  と上原が疑わしそうな視線を向けると、魚崎は、 「どうも近頃はそんな気がするよ。煙草一本にだって、こんなにあれこれ気兼ねするなんて、じっさい馬鹿げてる」 「じゃあ、自殺を肯定するわけかね?」 「いや、もうすこし複雑だな」  と英文学者は、まだほんのすこししか喫っていない煙草を灰皿に捨てて、 「肯定できたらどんなにいいだろうと、その状態に憧れている。ぼくの場合はやはり、子供のころのキリスト教が、何か作用してるんじゃないかと思いますよ。笑われるかもしれないが」 「いや、笑わない」  と低く答えてから、院長はウェイトレスに水を頼んだ。肥った娘は二人のグラスに水をついだ。英文学者は、 「死後の生というものがあるって感じ、まだするんだよ。ないとは言いきれない。そのくらいかな? もしあれば、自殺という罪を犯したら、これは大変ですからね。だから、自殺が罪でないということになれば一番いいんだが」 「罪だろうな、やはり」 「おい、おい、ストアの哲学者は大体、自殺を肯定していたんだが」  と魚崎はとつぜん陽気な声を出した。そして上原も急に笑いだし、これでようやく昔に帰って、楽しい気分で話をすることができると喜びながら、 「おれはストアじゃないよ。実際、君は何べん言っても判らない。何百ぺん言っても……」  と友達を非難した。だが相手は平気で、ところどころは今までにも聞いたことがあるストア哲学論を、はしゃいだ声で述べはじめる。 「ストアの連中がいちばん尊敬していた哲学者がソクラテスなのは、粗衣粗食だったとか、肉体的快楽を排斥したとかいうこともあるが、例の毒杯をあおぐソクラテスというのが一種の自殺、そう見ることもできるせいも大きいんじゃないか。第一、開祖のゼノンが自殺してるしね」 「自分で自分の首をしめて……」  と上原も、学生時代に戻ったように、あるいはすくなくとも三十代に戻ったように、知識の競争をはじめていた。 「そう、あれだよ」  と魚崎はうなずいて、今度はすこしもためらわずに煙草を口にくわえ、 「それからエリザベス朝演劇——シェイクスピアのころの芝居には自殺が多いでしょう。あれだってそうだ。あのころのイギリスの芝居はストアの影響を強く受けていたから」  院長は、たとえば『ロミオとジュリエット』のロミオの自殺などはそうだろうかと思ったが、何か恥かしいような気がして、そのことは質問しなかった。彼はただ、 「でも、ぼくはストアじゃないからな」  とにやにやしながら言って、 「だから……自殺は肯定しない」 「どうして?」  と魚崎は、まだ長い煙草を灰皿に、丁寧に押しつぶして消す。 「自分の意志じゃなくて生れて来たんだから、自分の意志じゃなくて死んでゆくのが正しいと思う。首尾一貫している」  彼としては、嘘を言っているつもりではなかった。むしろ自分のいちばん大事な信念のような、だからこそ今まで口にしなかったし、言葉にならなかったことを、旧友との会話でうまく引き出されて語ったつもりであった。しかしそれは声に出して言ってみると、何か一種の軽薄さで汚されていた。それはいかにも、テレビの音がうるさい喫茶店でしゃべる人生論のように聞えた。上原はすこし狼狽して、別の論理で補うことにした。 「ソクラテスの死は、あれは自殺じゃないと思うが、まあ、自殺だったとしても、あのせいで不幸になる人は誰もいないでしょう。つまり彼の『自殺』に責任を感じて苦しまなければならない人は誰もいない。周囲の人のなかに。みんなが助けようとして、国外へ逃げさせる用意をととのえたのに、ソクラテスが法律に従うと言い張ったわけだからね。誰も傷つかない。ところが……」  ソクラテスと対立する例をあげようとして、医者は一瞬ためらった。多比良の場合を例にあげればよかったのである。息子は自分のせいではないかと不安になり、妻は犬に嫉妬し、そして上原自身さえも画集を見せたという些細《ささい》なことをいくらかは気に病んだ——そのことを例にとればよかったのだ。だが彼の意識には、おかしなことに、さっきのロミオ——ジュリエットの恋人である若者がちらついていて(あれはストア的な自殺と言えるだろうか?)、多比良の死への関心を一瞬さまたげたのである。そのとき、魚崎が低い声で言った。 「朝子の自殺は辛かったな」  上原は手をあげてウェイトレスを呼び、紅茶を二つ頼んでから、 「うん、そうだろうな。悪かった」  と呟いて、あとは黙っていた。三十七年前の秋の夕方のことが、鮮かに心に浮んだ。  藤木が大声でデスクに話しているのが聞えた。 「……ええ、従兄。従兄の細君。いや、それはまだ判りません。電話番号はですね……」  酸っぱい臭《におい》のする部屋で、丹前を着た上原は畳の上に坐り、魚崎の妻の脈を取っていた。その手も、そして手首も、濡れて汚れている。いかにも金持の娘がお嫁入りのときに持ってきたものらしい、真赤な掛蒲団も、そして上原の膝の下の畳も、彼女が吐いたもので汚れていた。口から頤《あご》、頤から頸へかけては、吐いたものと涎《よだれ》とがいりまじって半透明の糸を引いている。発見した女中がつけたのだろう、明るい電燈がその情景を上から照していた。脈は打っていなかったし、いつまで経っても打とうとしない。朝子は死んでいた。  そのことは、静かな寝室へはいったときから、いや、近づいたときから、医者には判っていた。鼾《いびき》をかいていないのは決定的に不吉なしるしだからである。彼は酸っぱい空気のなかで吐息をつき、哀れな女へ頭を下げた。畳の上の汚れの冷やかさが、丹前をとおして、彼の脚へゆっくりと伝わって来る。  次の瞬間、医者は頭をあげ、すばやくあたりを見まわした。すっかり空《から》になった百錠入りの睡眠剤のびんが、きちんと廻した蓋も、ガラスのびんも、まだらに汚れながら枕もとにあった。そして、その下には白い角封筒がある。三十二歳の医者は角封筒を取りあげた。その表側はびんの底の円形だけが茶いろと薄い黄いろとに濡れることを免れて、逆の日の丸のような意匠を作り、あとは一面に濡れている。封筒には宛名はない。このままでは遺書の文面が読めなくなるだろう。上原はそう考え、便箋を取り出すことにした。彼は封を破り、汚物のにじみが、折ってある便箋の裏側にどの程度まで伝わっているかを調べた。便箋の表に書かれた女文字の一部分が透けて見えた。——「憎みます」。  彼は便箋をあけ、そして読んだ。 [#ここから2字下げ] 吉郎様 あなたはひどいエゴイストです。 憎みます。             朝子 [#ここで字下げ終わり]  そのとき廊下で荒ら荒らしい足音がした。彼は左手も右手も、袖から懐《ふところ》へすばやく入れた。封筒と便箋は丹前の懐でかすかな音を立てた。この遺書を魚崎にぜったいに見せてはならない、こういう呪いの言葉に堪えて生きてゆく力はあの男にはない。彼はそう思った。 「上原さん、どうです?」  と藤木が戸口でどなった。医者は振り向いて、そっと首を振った。新聞記者は彼のそばに来て、立ったまま朝子の死顔を見ていた。そのあいだ上原は、この男はぼくが遺書を隠したのを見ていたろうかと考えていた。 「やっぱり駄目でしたか」  と藤木は独言のように言い、 「臭いなあ」  と呟いた。上原は、彼の言葉のどちらのほうへの返事ともつかずに、 「うん」  と答えた。彼は考えていた。見られていなければ、もちろん差支えない。もし見ていれば、この男はそれを、魚崎に対するぼくの友情として正しく取るだろうか? それとも誤解して、何か怪しむだろうか? しかし十中八九まで、彼は一瞬おそかったのではないだろうか? 「そうか。仕方ないな。じゃあ一つ、これから記事の差しとめでも頼みますか」  藤木は、のんびりしたような、沈んだような口調で言い、その言葉とは反対に、汚れていないところを選んで坐りこみながら、 「吉《よつ》ちゃんがかわいそうだな」  と溜息をつく。 「うん」  上原はそう答えながら、魚崎に対してこの秘密を守るためには、できるだけ小人数の秘密にするほうがいいと考えていた。つまり、一番すくない小人数、一人が最もいいことになる。 「どうして自殺なんかしたんでしょうね。やはり焼餅かな?」  と藤木が訊ねた。 「さあ、判らない」 「判らないなあ」  と新聞記者は相槌《あいづち》を打って、ゆっくりと部屋のなかを見まわし、やがて立ちあがって、 「書き置きはありませんね」  と言った。 「ええ、ないようだね」  と上原は一呼吸おいてから答えた。  ウェイトレスが新しい紅茶を運んで来た。魚崎はゆっくりとスプーンでかきまわし、そして上原は二口か三口で紅茶を飲んだ。飲んでいるあいだじゅう、彼には、あの日おそく家に帰ってから、台所で一人で燃やした角封筒の、焔の色と灰のかたちとがなまなましく迫っていた。英文学者がぽつんと訊ねた。 「多比良は、書き置きはあったのかい?」 「なかった……まだ見つかってない」 「じゃあ、遺族は苦しむだろうな」  と魚崎は言った。 「そうね。しかし……どっちにしても辛い目に会うわけだね」  と医者は言って、 「やはり、自殺というのはノイローゼの結果だから……」 「上原らしい明快な論法だよ、それは」 「明快すぎるか。でも、まあ、そうだから、そういう状態で書いた手紙には客観的な真実が述べてあるはずはない。そうでしょう。結局、どうとでも解釈できる手紙ということになる」 「あるいは、どうにも解釈できない手紙」  と英文学者が補った。 「そう」  と院長は大きくうなずいて、 「どんなに詳しい手紙にせよ、それとも簡単な文面にせよ、受取人を困らせる作用しかない……そんな気がする。つまり、自殺というみじめな事件だけが残るにすぎない」 「なるほど、われわれのほうで言えば、テクストに当るのは自殺で、遺書というのは出来ない学者のつけた脚註、ということになるわけか」 「うん。もっとはっきり言えば、気ちがいの学者のつけた脚註……」  そこまで言ったとき、上原はかすかにためらった。自分のこういう言い方を、妻に自殺されたこの男は死者への冒涜《ぼうとく》として取るのではないかと恐れたのである。彼は一言《ひとこと》いい添えようとした。しかし、その一言のせいで、魚崎の妻が遺書を残したのだと認めることになってはいけない。上原はためらいつづけていた。  そのとき魚崎が紅茶を飲み終え、今までとすこしも変らぬ口調で訊ねた。 「もう今となっては、どうでもいいことみたいだが、どうなんだい? 朝子の書き置き。君と藤木が相談して、見せないようにしたんじゃないか、とも思ったんだが」  上原は、それではあの新聞記者は何も言わずに死んだわけだと、すばやく考えていた。そのことは彼を励ました。彼は友達の顔をまともに見て、短く答えた。 「いや、なかった」 「何も、君たちが意地わるをしたというんじゃない。好意で……」 「書き置きはなかった。それだけのことだよ」  ずいぶん長い沈黙があってから、魚崎は、 「失礼した。一度だけ確めておきたいと思っていたんだ、死ぬ前に。今日はちょうどいい機会だったから」  と詫びて、それから吐息をついた。テレビ・ドラマを見ていたウェイトレス二人が、にぎやかに笑い声を立て、主人が彼女らをたしなめた。階段の昇り降りで息切れのする男は、ちょっと考えこんでから、 「やはりタクシーで帰ろう」  と呟いた。 「うん、そうしろよ。ぼくも途中まで」  と医者は言いながら、伝票へ手を伸《のば》す。  香奠返しの包みを持った二人の老人は、日が翳《かげ》ってすこし冷えてきた歩道に立ち、長いあいだ待ったが、空車はなかなか来ない。最初のうち彼らは、アメリカの大学に勤めている魚崎の息子についての話をしていたが、やがて口数がすくなくなり、黙りこんだ。     4 十一月十七日(金)  四時帰宅。|妹とケンカをする。[#「妹とケンカをする。」に取消線]|彼女はどうも程度が低い。[#「彼女はどうも程度が低い。」に取消線]|最低である。[#「最低である。」に取消線]特に記すべきことなし。|後藤正也氏はユーウツであった。[#「後藤正也氏はユーウツであった。」に取消線] 十一月十八日(土)  学校で村上君と戦争について語る。ほぼ意見の一致を見た。その要点は、戦争は資本主義体制の必然として見るだけでは、資本主義にみんなが服従している現在、一種の運命論のようなことにしかならない、ということである。帰宅後、数学と英語。「アッシャー家の崩壊」を読む。|今日のおやつのトウモロコシは非常においしい。[#「今日のおやつのトウモロコシは非常においしい。」に取消線]|ママは冷凍食品をいやがるが、[#「ママは冷凍食品をいやがるが、」に取消線]|冷凍でもこれだけおいしいのである。[#「冷凍でもこれだけおいしいのである。」に取消線]|冷凍食品はいよいよふえる、[#「冷凍食品はいよいよふえる、」に取消線]|そして味もよくなる、[#「そして味もよくなる、」に取消線]|それが流通機構の[#「それが流通機構の」に取消線]明日からはもっと長い日記をつけるようにしようと決心する。文章の練習にはならない。漢字もめんどうくさがらないで辞書を引くこと。|このノート一冊で一年分のはずなのに、[#「このノート一冊で一年分のはずなのに、」に取消線]|まだ半分以上余っていてもったいない。[#「まだ半分以上余っていてもったいない。」に取消線]  〔欄外〕  喧嘩。憂鬱。玉蜀黍。「とうもろこし」の「とう」も「もろこし」も「漢土」の意というのはおもしろい。 十一月十九日(日)  午前中、数学。夜、テレビをすこし見てから英語。ポーの難単語に苦しむ。妹はグループ・サウンズに夢中。|よくない傾向だと思うが、[#「よくない傾向だと思うが、」に取消線]|またケンカになるので黙っていた。[#「またケンカになるので黙っていた。」に取消線]午後、隣の馬場君とキャッチボールを二時間ほどした。  馬場君と別れて帰って来ると、茶の間がなんとなくそうぞうしい。伯母さんである。本当はパパの伯母であるから大伯母であるが、そういうといやがるし、それに若く見える|(よほどくたびれているときは別)[#「(よほどくたびれているときは別)」に取消線]ので伯母さんといってもおかしくない。六十くらいなわけだが、今日なんかは四十代に見えた。|四十代というのは少し大げさで[#「四十代というのは少し大げさで」に取消線]若く見えたのは、明日ママといっしょに銀座の「サン」のバーゲン・セールへ行くので、陽気になっているからである。今日はデパートの帰りに、ママを誘いに寄ったのだ。ママはいつものように、|行きたいのを我慢して[#「行きたいのを我慢して」に取消線]モジモジし、伯母さんが、お金なら貸してあげるといって、結局、行くことに決まったにちがいない。あとになって反省したり愚痴ったりするにきまっている。  ママもそうだが、伯母さんはそれに輪をかけて買い物が好きである。お金もある。|ママはいつか、[#「ママはいつか、」に取消線]|伯母さんのようにお金に困らない未亡人ならなってみたいといって、[#「伯母さんのようにお金に困らない未亡人ならなってみたいといって、」に取消線]|パパに叱られていた。[#「パパに叱られていた。」に取消線]パパにいわせると、伯母さんは絶世の美人だ|った[#「った」に取消線]からお金持へお嫁に行けたのだそうである。今日の着物も、渋くて、よい趣味で、りっぱだ。そういって褒めたら非常に喜んでいた。  妹とふたりで、オモタセのケーキ|(エクレアとサバランとパイ)[#「(エクレアとサバランとパイ)」に取消線]を食べ、紅茶を飲んでいると、デパートで珍しい人に会ったという話になった。珍しい人というから誰かと思ったら、上原先生である。四十年ぶりに再会したのだそうだ。  ママが、 「先生はいつも、伯母様はお元気ですか、とおっしゃるんですよ」  というと、嬉しそうにして、 「そうですってね。それには、わけがあるの。本当はあの方のところへお嫁に行くはずだったから」  これには本当にびっくりした。ママは、 「まあ!」  といったが、ぼくなんか声も出なかったくらいである。愕然《がくぜん》としていると、ママがぼくたちのほうを|しきりに[#「しきりに」に取消線]見るので、 「教育上悪い?」  と聞くと伯母さんが笑って、 「いいのよ。かまわない、かまわない」  というのでママも仕方がなく黙っていた。  二人は見合いをしたのだそうである。デートもしたらしい。先生も伯母さんも結婚したいと思ったが、|伯母さんの[#「伯母さんの」に取消線]お父さん|つまり大伯母の父だから[#「つまり大伯母の父だから」に取消線]が先生の家の財産を調べて|貧乏なので[#「貧乏なので」に取消線]反対した。それでやむをえず別の男の人のところへお嫁に行ったという、まるで江戸時代のような話だった。封建思想はこういう形でつい最近まで残っていたのである。  ママが、 「あの先生、お若いころは魅力的だったでしょうね。今おりっぱだから。せいが高くって。美男というほうじゃないけれど」  といったら、伯母さんが、 「あら、そんなことないでしょう」  と憤慨したのはおかしかった。  伯母さんがデパートの四階の宝石売り場で、ひょいと見ると、ダイヤモンドを削ったり磨いたりの実演をひどくおもしろそうに見ている老人がいて、その横顔で上原先生とわかったのだそうだ。じっと横顔をみつめていると、視線に気がつき、不思議そうにして伯母さんを見たが、先生のほうでも四十年ぶりなのにすぐわかったそうである。  この話のところで、妹はすっかり感動して、ポカンと口をあけていた。|ミーハー的である。しかし[#「ミーハー的である。しかし」に取消線]ぼくも非常に感動した。  しかし残念なことに、このさきはちっともロマンチックでない。二人は宝石売り場の人ごみのなかで五分ほど立ち話をした。|喫茶店でお茶ぐらい飲んでもいいと思うが[#「喫茶店でお茶ぐらい飲んでもいいと思うが」に取消線]立ち話だけで、それも話題がくだらない。伯母さんは十年前に宝石を落したと思ったら落していなかったときのことを話し、先生はぼくの横腹の痛みのことを説明したのだそうである。|どうもロマンチックでない。[#「どうもロマンチックでない。」に取消線]|ぼくは非常に失望を感じた。[#「ぼくは非常に失望を感じた。」に取消線]しかしいま考えたのであるが、ロマンチックな話であれば、ぼくたちは茶の間から追っ払われていたろう。  二人はそれから宝石売り場を離れた。伯母さんがエレベーターのところへ行こうとすると、先生は、 「じゃあ、ここで失礼して」  といって、おじぎをして、階段のほうへ行こうとする。そして、昔よく山へ登ったが、近頃は年を取ってそうも行かないので、ときどきデパートへ来て一階から階段を昇る、途中で売り場を覗くこともある、エレベーターもエスカレーターも使わない、こうすると体にいいし、若い時分のような気持になる、と説明したそうである。伯母さんは、 「『これからはもう歳末で、デパートもこむから、これが今年最後の登山ということになりますな』と笑いながらおっしゃって、五階へ行く階段を昇っていらしたのよ。しゃんとしていて、お元気で、とてもおりっぱね。わたし、なんだか、本当の山登りを見送るような気がした」  といった。 [#改ページ]   川のない街で     1  真夜中、雅子《まさこ》は激しい雷鳴で目覚めた。それは真上の天から垂直に、自分へ落ちて来たと感じられた。正確に言えば、このとき彼女はまだ目覚めていない。眠りと目覚めとのあいだで、雅子は獣のように怯《おび》えていた。しかしこうして若い妻はゆっくりと、つゆ明けの雷雨の夜ふけへはいってゆく。窓ガラスが稲妻で水いろに光った。さまざまの距離で雷が轟きつづける。しかしそれはどれもこれも、もう、さっきの雷のように恐しい勢いで空間を突き裂くものではなくなっている。それとも、あれは夢だったのかしら? 土砂降りの雨が窓を荒ら荒らしく打っていた。カーテンのすきまから洩れる稲妻のきらめきを灯《あか》りのかわりにして、雅子はそばの小さなベッドを見た。小さな電球の濁った光が頭上にないわけではないが、それよりも稲妻のほうがずっと役に立った。子供は眠っている。  恐怖が去ってゆく。雅子はカーテンをすこしずらして、もっとよく子供が見えるようにした。いま世界がこうして雨に濡れていると思うことは楽しかった。ほうぼうで干害に悩んでいる、からつゆの年なのである。殊にアパートのそばの、小川を埋め立てた跡、空地とも道路ともつかないおかしな場所が雨に打たれていると思うことは、彼女を慰めた。あの、みすぼらしい二つの橋で区切られた細長い場所では、以前、川だったときよりももっと、たくさんの水が流れているのではないだろうか? 雅子は小さな木のベッドに背をよりかけた。乳の匂いが(もう離乳期は終ってしまったのに)自分を濃く包むような気がする。若い母親はまた横になった。乳の匂いのする霧が彼女を追いかけて来る。そのとき、夫がはいって来た。  達吉は部屋の隅にたたずんだまま、普段とは違う声で言った。 「爆撃じゃないんだね。雷なんだね」  それは寝言と普通の会話とがいりまじったような声で、滑稽と言うよりも異様な感じがした。 「ええ、雷」  と妻が答えたのは、すこし遅れてである。最初は、夫が何の話をしているのか呑みこめなかったのだ。妻は笑わなかった。そして夫は独言《ひとりごと》のように言いつづけた。 「雷。空襲じゃなかった。爆撃かと思って」 「違うわよ。爆撃じゃないわよ」  と妻も闇のなかで小声で言った。子供をあやすときのような、しかしまじめな口調である。  夫はまだたたずんでいる。軋《きし》むような鈍い音がしたから、箪笥によりかかっているのかもしれない。また強い稲妻がきらめいて、ほとんど同時に激しい雷が轟いたとき、一瞬、白い浴衣を着た夫の姿が、映写されたように浮びあがって消えた。ちょうど、映画館の故障のよう。夫はまっすぐ立ってはいなくて、斜めにかしいで見えた。箪笥と雅子の蒲団のあいだの僅かな面積に、幽霊のようにぼんやりと。 「いらっしゃいよ」  雅子はそう誘って、体をすこし子供のベッドのほうへずらした。一つには、黙って立っている達吉がかわいそうに思われたせいだし、それに、夫に抱いてもらいたいという気持もあった。去年の初夏、この子が生れると、六畳二間の一方に雅子と子供が寝て、もう一方が夫の部屋ということにした。寝室が別になってからは、いつも夫の部屋へゆくようにしていたし、赤ん坊の眠っている部屋では拒んでいたのだが、今夜は気にならない。今までは子供に覗《のぞ》かれるようで厭だったのに、かえって刺戟があるような気さえする。雅子は待ちながら、ずいぶん久しぶりのことだと思っていた。このところ十日ほど、それとも二週間ばかりだろうか、とだえていたのだ。 「ねえ」  しかし浴衣の達吉は、ネグリジェの雅子が体を片寄せたあとの幅の狭い部分に、横たわろうとしなかった。彼はただ箪笥の前から数歩動いた。壁と蒲団のあいだに窮屈そうに腰をおろし、壁に背をもたせかけたらしい。よくそうするように、両手で両膝をかかえているのかもしれない。そして、彼は呟《つぶや》いた。 「勘ちがいしてね。爆撃かと思った」  もう、その呟きは、寝ぼけたような気味の悪い声ではなくなっている。普段の声で夫婦は話しだす。 「ひどい雷だったから」 「うん、すごかった」  達吉は、中学の上級生のときに体験した空襲の話をした。雅子には、それが今の勘ちがいの言いわけだということが判る。無意識のうちに言いわけをしているので、意識の表面ではごく自然に話がつづいているのだということも判った。彼女は、何度も聞いたことがある話なのに、うなずいたりこわがったりする。事実、何度くりかえされても、それは恐しかった。雷がほとんど鳴りやんだ。 「B29が飛行機の一種だという気がしなかったな。おかしな話だけれど。何か別の兵器。新兵器という感じがした。それまで知ってた飛行機と、規模がぜんぜん違うもの」 「ヘリコプターと飛行機くらいの違い?」 「……」 「じゃあジェット機?」 「もっと大変な差。とにかく桁《けた》はずれでね。うまく言えない」 「判らないわ。見当がつかない」  と言ってから、雅子はそっと言い添えた。 「あたしには、ほら、想像力がないもの」  それは冗談だったし、媚《こ》びでもあった。だが達吉はその冗談にも媚びにも取り合わないで、 「そうじゃないよ。判らないのが当り前だ、ああいうことは。体験しなくちゃ。君はまだ小さかったわけだから」  と沈んだ声でまじめに答えた。  達吉と雅子は恋愛による社内結婚で、部長に媒酌をしてもらったのだが、十以上も年が違う。そして年の差だけではなく、彼は旧制の官立高等工業の卒業生なのに、彼女は新制の私立高校の、それもあまり格の高くないところを出ただけとか、いろいろ違いがあった。もしかすると彼らの恋や結婚は、そういうさまざまの違いが作り出す距離のせいかもしれないのだけれども。  若い事務員は最初から、中年の係長を漠然《ばくぜん》と尊敬していた。そしてやがて彼女は、こんなに年上の、それゆえ給料も多い男(しかも係累と言えば、めったに交渉のない弟だけなのである)との結婚を喜ぶことになった。この独身者が、二部屋とダイニング・キチンのこの分譲住宅を買い取って住んでいることも、雅子の心をそそったようである。そして達吉は、美しいというよりはむしろかわいい、しかも体も顔立ちも大柄な娘を漠然と軽蔑し、その軽蔑を愛情だと誤解していた。  もちろんそういう感情のなかには、雅子の若さに対する恐れが含まれていなかったわけではない。結婚前も、その後も、達吉が何かにつけて「世代の差」というむずかしい言葉を使い、彼女を押えつけたのは、たぶんそのせいであろう。育った家庭のせいでの違いにすぎないものも、彼はとかくそんなふうに呼びたがったのだ。しかし雅子が妊娠したころから、そのお気に入りの言葉は口にされなくなり、「想像力」という言葉がそれに代った。女には想像力がないとか、君はイマジネイションが欠如しているとか、ほとんど口癖のようにして雅子をからかったのである。だから、「あたしには想像力がないから」という彼女の言葉は、「あたしは馬鹿だから」という意味にほぼ等しかった。  達吉は平凡な会社員で、べつに短歌や俳句を作るわけではないし、小説も読まない。テレビは見るが、芝居や映画にもあまり出かけない。ただ一つの道楽は鉄道趣味で、子供の時分から汽車が好きだったが、専門学校にはいってからはいよいよ昂《こう》じて、学校にある同好会の会員にもなった。最初のあいびきのときに雅子を連れて行ったのも、教室のような部屋で映写される、古ぼけた汽車が走ったり止ったりするだけの映画である。雅子は失望した。そして失望はしながらも、筋も音楽も色彩もない映画が何となく有難味があるような気がして、かえって達吉に対する尊敬の度も加えたようなふしもある。  もともと、彼が想像力というしゃれた概念を覚えたのは、この道楽のせいなのである。二つ取っている鉄道趣味の雑誌のうちの一つに、われわれがこの「高級な」趣味を楽しむことができるのは想像力を働かせるからで、同好の女性がすくないのは女性にはもともと想像力が恵まれていないためだ、という論文が載ったことがある。達吉はこの論旨に感銘を受け、奇妙な話だが、自分は生れつき想像力が豊かなのだということを発見した。女の読者が憤慨したので論争がはじまり、それがもう一つの雑誌にまで飛び火していろいろと面倒なことになったが、反論のほうはどれもこれも彼を説得したらしい気配がない。つまり彼は、自分の想像力といっしょに、女性におけるそれの欠如を信じたのである。  手近な女と言えばまず雅子だし、あるいは彼女しかいないから、達吉は妻を想像力の乏しい者として見た。そして、あらかじめそう思ってかかるのだから、いちいちのことが——たとえば電話に向ってお辞儀をする癖も、ときどき夢の話をしたがることも、そういう傾向の証拠としてあげられる。電話のことはともかく、夢の話のほうは正反対にも取ることができそうなものだが、達吉はそうしなかった。あまりにも実際的な性格の女で、事実でないこととかかわりを持つのは夢のなかだけだから、珍しさのあまりしきりにそれを話したがるのだという理屈をつけたのである。  雅子がこの理屈を、寝物語で詳しく説明してもらったのは、妊娠五ヶ月のときのことである。その日の昼寝のとき見た夢の朦朧《もうろう》とした一部始終を、彼女が語るのを黙って聞いてくれていた夫が、やがて嬉しそうにして教えてくれたのだ。想像力と夢の関係はどうもよく呑みこめなかったが、雅子は夫の結論を鵜呑《うの》みにした。彼女が問題にしたのは、むしろ、夫は自分の夢の話を聞くのが好きでないらしいということだった。そして、結婚前に一度か二度、妹に夢の話を聞かせて、 「姉ちゃんの見る夢って、ちっともおもしろくない」  と叱られたことがあるのを思い浮べ、この話題はやはり慎まなければならないと決心した。……   しかし、自分には想像力がないのだということは引け目になっていたから、いま闇のなかで、戦争中のことが判らないのはそのせいではないと言われると、やはり嬉しくなる。こういうふうに優しくいたわるのが、普段の夫の、軽蔑したり侮辱したりすることで愛情を示す態度と違うとは、雅子はそのとき考えなかった。 「雷だったのか」  と達吉はまた独言のように言った。 「ねえ、横にならない?」  と雅子は促した。 「うん」  だが夫はそう答えたまま動こうとしないし、黙りこんでいる。こんなふうにしている、気が進まないらしい夫に手を伸べて甘えるのは、何かはしたないことのような気がした。夫は、よくは見えないけれど、うなだれているようだ。残業つづきで疲れているのかもしれないし、それとも、ただ眠くなっただけなのかもしれぬと雅子は思った。彼女も眠くなってきた。  そのとき夫は、かすれた声で思いがけないことを言い、雅子を愕然とさせたのである。彼は、 「雅子、別れてくれないか? 突然で、どうも何だが」  と詫びるように言ったのだ。彼女はしばらくのあいだ、起きあがることも忘れて茫然《ぼうぜん》としていた。いま夫が、明日の朝は何時までに会社へゆかなければならないとか、明日の夕食は久しぶりに豚を食べたいとか言ったのではなく、離婚を申し出たのだということが、嘘のような気がする。こんなに重大な話が、暗闇のなかで、しかも自分が横になっているときに持ち出されるのは理屈に合わないと彼女は感じた。夫はまた黙りこんでいる。雅子は身を起して蒲団の上に坐り、 「ねえ、どういうことなの?」  と訊《たず》ねた。その声があまり険しくなくて、眠そうな口調なのは、自分でも意外だった。 「うん、別れてほしいんだ。離婚……」 「どうして? 離婚だなんて、そんな」 「うん、どうしてと言われても困るが、つまり」  と夫は言葉を濁して、 「まあ、性格の不一致とでも言うか」  と答にならない答を言う。妻はあわただしく考えつづけた。もうこのころには、眠気はすっかり去っている。 「ねえ、冗談を言ってるんでしょう」  と雅子は呟いた。陽気な態度を装うつもりだったのに、それはうまくゆかなくて、いかにも不安そうな暗い口調になっている。 「ときどき、おもしろいことを言って、あたしをからかうから」 「いや、まじめな話だ。まじめな話」  と彼は打消した。彼女は訊ねた。 「あまり引越しのことを言いすぎたから、厭になったの?」 「そういうわけじゃないが」 「ね、そうでしょう。ね」  と妻は大声で言いながら、夫の膝をつついた。 「それであたしが嫌いになったんでしょう」 「いや、そういうわけじゃない」  去年の暮れごろ、どこかもっと別のところへ引越したいと、雅子は夫に何度もしつこく言ったが、相手にされなかった。あれは離乳に忙しい時期で、気が立っていたのかもしれないし、事実、夫はそう言ってたしなめた。ゆで卵の黄身はどれもこれも、人工着色してあるみたいに黄いろすぎたし、じゃがいもをすりつぶそうとすると、みな、硬い芯が邪魔をしているような気がした。だから、神経のせいかもしれないが、小川を埋めた跡の空地を見るのが辛くて仕方がなかったのである。  まだ婚約中のころ、それからもっと前の婚約もしていないうち、このアパートへ訪ねて来た時分には、小川が残っていたし、それは黒くて淀《よど》んでいて、いつも油のすじが浮いている。油は風の具合や日の光のかげんで、ビー玉のように光ったり、もつれた毛糸のように見えたりした。これはもうすぐ埋められて臭くなくなる、と達吉は教えてくれた。早くそうなればいいのにと雅子は思ったが、どうしたわけか、工事はいつまでものびのびになっている。ところが新婚旅行から帰って見ると、黒い水たまりは影も形もなくなり、道路でも空地でも小公園でもない、みょうなものがアパートに寄り添っていた。  そして、窓の下に長く這うその細長い面積は、去年の初夏から夏、秋から年の暮れへと移り変る、お産のあとの半年のうちに、我慢できないものに変ったのである。まず退院の日、赤ん坊をベッドに寝かせてから、窓を見おろしたとき、厭な感じがした。ただしそれは、灰皿でいぶっている煙草の煙のようなかすかなもので、吸殻を押しつぶして消すように、無理に忘れてしまったけれども。それから、あれは十二月のことだった。商店街の大売出しで溜った福引券を、子供が眠っているすきに大急ぎで使い、つまらない賞品を受取ってから、いつものように近道をしようとした。雅子は大通りから——下に水がないので本当はもう橋ではなく、橋の名残りにすぎないものの横から——狭い小さな石段を三つ降りて、川の跡の空地へ立った。ここから百メートルばかりゆけばアパートなのである。そのとき不意に、川が無性《むしよう》になつかしくなった。この厚い灰いろのコンクリートに塗り固められる前、まるでここには澄んだ水がおびただしく流れていたような、嘘の思い出が彼女をとらえた。もちろん記憶の誤りはすぐに正されることになる。ここには川はなかった。黒くて臭い水たまりがあっただけだと寒い乾いた風のなかで彼女は自分に言い聞かせた。しかし、それでも川への憧れは消えないし、すきとおる水をたたえて流れつづけるもののイメージはかえって鮮かになる。そしてその憧れといっしょに、まるで水の流れを葬った墓のような、途方もなく大きな墓の途方もなく大きな蓋石のような、この乾いた灰いろの面積に対する嫌悪が、心に住みついたのである。  こうして今の住《すま》いが雅子には厭《いと》わしくなった。川の跡の向うにある、以前はお屋敷で今は有料駐車場になっている広い地面に、ひっきりなしに車が出はいりする音も、それよりもっと頻繁な、大通りの車のゆき来も、このころから彼女の眠りをしきりに妨げる。産後すぐの時分にも肩がこって困ったが、それがまたはじまるし、管理人のいないこのアパートの当番制も、当番の手におえないことについての話しあいも、それから空地に面していないほうのもう一つの棟の、六十ぐらいの婆さんの些細な意地わるも、彼女をいっそう疲れさせた。新婚当時には広いと思っていた、六畳二間とダイニング・キチンも、家具がいろいろふえ、子供が生れて、狭苦しくなったという事情もからんでいる。妻は、同じアパートのなかのどの家がいくらで売りに出ている、いくらで売れたという噂に、注意しはじめた。新聞が来るたびに、アパートの広告を熱心に探した。そして、ぜひどこかへ引越したいと毎日のようにせがんでは、夫を困らせた。  それなのに引越さなかったのは、結局は金の工面がつかないせいである。いま住んでいるアパートは、即座にはそう高くは売れない。この分譲住宅を買ったあとの貯えは、結婚や出産のせいでほとんど費い果していると言っていい。そして、会社ではほんの僅かしか貸してくれないということが判った。達吉は、これ以上のところに住むのがどんなに贅沢な話かということを詳しく説明し、もうしばらく待てと言い含めて、諦めさせようとした。妻はそれでもまだぶつぶつ言っていたが、実家にそれとなく金策の話を持ちかけて断られると、憑《つ》きものが落ちたようにあっさり諦めた。これは娘の初節句のころで、この時分になると肩のこりも大分よくなっていたし、川の跡の空地も以前ほどは気にならない。彼女の表情はまた明るくなった。ただし夫に対する失望は、雅子の意識のわりあい浅い層に残り、それがもっと深い層の、もう一つの不満と作用しあうことになるのだが。  しかし夫はいま闇のなかで、引越しの話のせいではないと打消した。言いよどんだ口調ではあるが、返事そのものははっきりしている。雅子は不安になりながら、 「ね、あのせいでしょう。だって……」  と言いかけて、そのさきの、「それ以外には思い当るふしがない」というところは口に出さなかった。女性関係のあやまちなどあるはずがないと信じているのだが、当人を前にしてそんなことを言うのは何となくおかしいので控えたのである。しかしその判断には自信があった。たしかに器用なたちの男ではなく、彼女との最初のときも、このアパートに訪ねて来て話がとぎれ、すこし困っている雅子に、とつぜん襲いかかって来たのだ。それも、まるで強姦のようなそのことに成功したのならともかく、驚いて拒むと、今度はすっかり遠慮してしょげ返っている。途方に暮れているその様子がいじらしくなったので、慰めるようなふりをして寄って行ったのである。だから、そういう点での心配はないと、かねがね安心しきっていた。 「ねえ、そんな無茶なこと言わないでよ。藪《やぶ》から棒に」  と雅子は頼むようにして言った。 「あたし、厭よ」 「……」 「子供がかわいそうじゃない」 「うん、それはかわいそうだけれど」  と達吉は受けて、 「育てると言ってるんだ」 「……?」 「……向うで」  翌日、雅子は実家へ行って、その「向う」というのが小学校の女教員であること、夫が彼女と鉄道趣味の会で知りあったことなど、一部始終を母親に語った。ただし、その女が自分よりはかなり年上らしいから、きっと空襲のことや配給のことをあれこれと話しあって、「世代の差」のない会話を楽しんでいるにちがいないという推測は、口にしなかった。想像力が乏しいせいなのかもしれぬ、夫とその女教員とが、機関車の型や駅弁の包み紙について語りあうことは心に浮ばなかった。雅子は泣き、母親も眼をしばたたいた。父は表の工場、妹は洋裁の学校へ行っているし、弟は図書館で試験勉強をしているはずである。母子二人きりなため、こういうしんみりした話をするには非常に具合がいい。かけっぱなしのテレビの騒がしい音は、二人の会話をすこしも邪魔しなかった。  雅子の母は、もう赤ん坊の抱き方を忘れてしまった手つきで、あぶなっかしく孫を抱きながら、 「男ってものはねえ」  と嘆息し、ぜったい別れ話を承知してはいけない、子供を渡してはいけないと指図してから言った。 「やはりあの病院のことが悪かったのじゃないか。お前、きっとそうだよ」 「そうかしら?」 「あれでケチがついたような気がするよ、あたしは。本当に、とんでもないボロ病院だ」  雅子の母はそう呟いてから孫の顔を覗きこみ、生後一年と一ヶ月の赤ん坊に、 「よかったね。あっちの母ちゃんの子にならなくて」  と語りかけたが、子供は上機嫌で、 「ウー、ウー」  と唸っている。母はよく肥った子供の腿《もも》を掌《てのひら》でそっと叩きながら、また語りかけた。 「よかったね。ピアノの母ちゃんのうちの子にならなくて。ピアノ弾かせられるところだったよ。指が短いと、手術して、指のまたを切るんだってさ。本当だよ、雅子。厭だねえ、ピアノなんて」 「ウー、ウー」  産後四日目の沐浴《もくよく》のとき、看護婦の手ちがいで、雅子の子供はよその家の子供と取替えられたのである。沐浴のあとの夕方の授乳のときには気づかなかったが、夜の授乳がすんでからようやく雅子は疑いはじめ、看護婦にその疑惑を洩らした。看護婦はすぐに打消し、雅子はやはり気の迷いだったと考え直した。しばらくして婦長と医長が来て、雅子をたしなめ、若い母親はいよいよ自分の「錯覚」を恥じた。  相手方の母親は団地のなかの子供たちに教えているピアノ教師で、二度目のお産だし、年も雅子よりすこし上である。彼女が事故に気づいたのも夜の授乳のときだが、処置の仕方はまったく違う。ピアノ教師は看護婦に黙っていた。そして、目鼻立ちの感じが自分の子供と違う赤ん坊が連れ去られると、すぐ夫に電話をかけた。夫である税理士は上の子供を寝かしつけてから大急ぎで病院に来て、詳しく事情を聞き、新生児室へ行ってみたが、赤ん坊はみな同じような感じで、妻の言うことが正しいかどうか判断がつかない。彼は翌日の昼、上の男の子が寂しがるという理由で退院を申し出た。ベッド不足で困っている病院があっさり許可したことは言うまでもない。夫婦は家に帰る途中、あらかじめ連絡して置いた別の病院に寄り、親子三人の血液型を調べてもらった。翌日、税理士はその病院の鑑定書を持参して、医局に抗議したのである。  雅子が夫には無断で(彼女の神経はすっかりおかしくなっていたのだ)退院したいと申し出たのは、税理士が引上げた直後のことだが、この希望はかなえられなかった。貧血その他で経過が思わしくないから、もうしばらく入院しているほうがいいと言われたのだ。それだけでなく、輸血しなければならない場合に備えるという口実で、達吉が呼び寄せられ、血液型を調べられた。こうして万事が明らかになったのだが、病院側はさして詫びることもなしに、別の(あるいは元の)赤ん坊を雅子に抱かせた。  彼女は退院の日に、こういういきさつの全部ではないけれどもある程度を知った。婦長とも沐浴の看護婦とも仲の悪い看護婦が、耳打ちしてくれたのである。相手のピアノ教師というのは、入院前、病院へ通っているころよくいっしょになって、軽く会釈をする仲だったから、すぐに見当がついた。雅子はその女のしっかりした態度を淡く憎みつづけた。と言うよりも、税理士のてきぱきした処理と正反対な、達吉のだらしなさがくやしかった。雅子が婦長と医長に叱られているところへ、ちょうど残業を終えた夫が見舞いに来たのだが、まるで傍観者のように聞いていたあげく、「不行届き」を二人に詫びたのである。また、不始末をきちんと謝ろうとしない病院側の態度に雅子が腹を立てても、何しろこの院長に紹介状を書いてくれたのは課長だから、事を荒立てないほうがいいとなだめたのだ。  こうして妻は、かつて上役だった男への尊敬を失った。尊敬が失われ、あるいはすくなくとも薄れると、今までと違うさまざまの局面がおのずから見えてくる。技術者なのに営業にいるという事情のせいでやむを得ないと思っていたけれども、それにしてもどうも出世が遅れているような気がするとか、もともと営業へ廻されたのもあまり有能でないせいではないかとか、いくつかの疑惑が心に浮び、そして沈んで行った。夫は、自分に対する妻の評判の変り方をぼんやりと感じ取って(妻が子供にかまけているせいでの寂しさもすこしはあるが)、別の、たとえ鉄道知識のせいででも尊敬してくれる女を求めた。ただし夫婦は二人とも、こういう心理の綾をさほど自覚してはいなかったのだけれども。夫は自分の恋愛について、とうとう理想の女を見つけたのだと考えていた。妻は相変らず、十以上も年の違う夫を頼りにしていた。そうしなければ不安だったからである。  そんなわけだから雅子は、子供を取替えられたせいで別れ話が持ち上ったという母親の考えに反対し、二つのことのあいだには関係がないと言い張った。すると母親も自信がなくなって、その説を引っこめ、夫が妾を囲ったときにどんな苦労をしたか、ところがその女が男をこしらえ、万事めでたく解決したという、何度も聞いたことのある、しかし今までは身を入れて聞かなかった話をはじめる。だが、弟が帰って来たため、その長ばなしはおしまいまではゆかなかった。去年の出来事を知っている弟は、姉を喜ばせようとして、赤ん坊が雅子にそっくりだと何度もくりかえした。母親は、近頃は肩はこらないかと訊ね、何だったら洋裁学校のない日に妹を手伝いにゆかせてもいいと言った。そして、都電の停留所まで送って来て、 「これはやはり仲人をしてくれた重役さんのところへ、こっそり相談にゆく手だね」  とささやいた。  重役というのは母の誤りで、本当は部長である。しかも頼まれ仲人にすぎないから、相談してみたとてどれだけ親身になってくれるか疑わしい気がする。前には、達吉が目をかけてもらっていると思っていたが、夫への尊敬が薄れたせいか、今では、あれはやはり断れば角が立つからしぶしぶ媒酌を引受けたのだというふうに見える。だが、夫はあの雷雨の夜からは、いたって口数がすくなくなり、最低限度必要なことしか言わないし、泊ってこそ来ないけれども、ときどき女と会っているらしい気配がある。どうすればいいのかと考えても、母のすすめたこと以外にはこれと言って案が浮ばなかった。雅子はやむを得ず、やはり部長を訪ねることにしようと決心した。  ただし、この身上相談までにはなかなか手間取った。まず赤ん坊が軽い風邪を引いたし、その次には湿疹になった。その合間には、アパートの掃除婦に出すボーナスの金額をいくらにするかで、連日のように話しあいがある。それに部長は夜分と休日しか家にいないわけで、もちろんそれも確実ではない。会社へ訪ねてゆくのはおかしいし、前に勤めていただけになおさら気が引けた。いっそ部長の奥さんに話を聞いてもらおうかしらと思案しているうちに、半月ばかり経ってしまう。  七月の半ば、達吉が、同じ課の若い者といっしょに二日間、地方へゆくと言った。別に出張という言葉は使わなかったのだが、ぎりぎり必要なことしか話してくれないし、それに課の者が道づれと聞いたので、何となく会社の用事でゆくのだと早合点した。この小旅行は、自分が部長を訪ねるのに好都合なので、雅子も内心喜んだのである。達吉が留守にする最初の日の晩、彼女は部長の家へ行った。赤ん坊は、妹に来てもらってあずけてある。  しかしこの身上相談はみょうなことになった。若い妻は部長の愚痴の聞き役に廻らせられたのである。部長は、十日ほど前、東南アジアの支店勤務という話を達吉に持ちかけたが、あっさり断られたと言って、かなり不機嫌だった。単独赴任はすこし辛いかもしれないが、地位が上るためにはこれが一番の策だと思っていろいろ口添えしたあげくのことなのに、そういう親心をちっとも汲んでくれないというのだ。雅子は詫びた。そして、その話は初耳だけれども、何しろ子供が取替えられたりしてあたしがヒステリーを起しているため、気がかりなのではないかなどと夫をかばった。あとで考えてみると、東南アジアゆきの話が出たとき身上相談をはじめればよかったのだが、部長の勢いに押されてつい話をしそびれてしまったのである。  晩酌の酔いがまだ残っている、血色のよい五十男は、それから達吉の性格の批評をはじめた。律義者で、仕事はきちんとしているが、どうも退嬰的《たいえいてき》でよくないというのである。 「汽車なんかに凝るのも、こういうことと関係があるんじゃないか」 「はあ」  そのとき妻が紅茶のセットを持ってはいって来たせいだろうか、部長は、 「鉄道マニアの女がいない理由、判ったよ」  とおかしなことを言い出した。二人の女がけげんそうにしていると、 「女性はみんな積極的だからな。ところが男のなかには引込思案な、内気な奴がいて、そういう連中は大人になってもまだ汽車ごっこをする」  女たちは笑い、部長は得意そうにして、 「今日は大発見をした。女というものはだね……」  と何度もくりかえした。部長の機嫌はこれでいちおう直ったが、それでも達吉への不満は抑えきれないらしく、廃止になる私鉄の映画を撮るため、この忙しいときに休暇を取って(それも自分ひとりならいいが、若い課員にまで無理に休暇を取らせて)山のなかへ出かけるのはおかしいと首をかしげた。 「大変な熱中ぶりですな。まあ、休暇のことにまで口を出すつもりはないが」 「はあ」  雅子はまたしきりに謝ったし、奥さんもとりなしてくれた。部長の妻が育児のことに話題を変えたので、病院の不手際の話になった。部長は、相談してくれればもっとしっかりした病院を世話してやったのにと憤慨し、自分は達吉に煙たがられているのかもしれないとひがんだ。雅子は、そんなことは決してないと言ってから、紹介してくれた課長にあれこれ気兼ねしながらも、病院をけなした。奥さんはすっかり同情して、眼にハンカチを当てる。雅子もそうしながら、今ここで女性関係の話などしたら達吉の評判はどうなるか知れないと、ハンカチの蔭で思案した。身上相談はもう諦めるしかない。こうして彼女の訪問は、ごくありきたりの中元の挨拶ということになってしまった。  帰って来た達吉は、自分に内緒で旅行をしたという雅子の怨み言を聞き、呆気《あつけ》に取られた。部長の家を訪ねたときのいきさつを聞き終ると、彼は暗い表情で、 「ちゃんと諒解してくれたのになあ」  と何度も呟いたが、それは東南アジアゆきのことについてなのか、休暇のことについてなのか、それとも両方をひっくるめての話なのか、雅子にはよく判らない。しかし、休暇の旅行を出張と思いこんだのが自分の誤りらしいということは納得が行った。部長に会いに行ったことについては(結局、身上相談をしないで帰ったせいかもしれないけれども)、達吉は何も咎めなかった。ただ彼は、言い訳というよりはむしろ抗議の感じで、 「おい、あの人といっしょに旅行したわけじゃないんだぞ」  と雅子をたしなめ、その「あの人」という言葉から立ちのぼる甘い香りで妻を傷つけた。彼女は興奮のあまり、部長が達吉の性格についてどう批評したかをむごい言葉で伝え、彼をいよいよ暗い表情にさせた。  これ以後、達吉はときどき泊って来るようになり、雅子はまた肩こりに悩みはじめた。散歩をすればよく眠れるし、肩もこらなくなると考え、晴れた日には乳母車を押してできるだけ長い時間、近所を歩くことにしたが、乳母車は、別にその学校が夫の恋人の勤めさきというわけではないのに(いくら訊ねても、夫は彼女の勤務校を教えないのだ)、とかく近所の小学校の前に止りがちであったし、様子のいい女教師を見かけると、雅子の胸は痛んだ。  夫婦のことは長いあいだとだえていた。ある夜、遅く帰って来た夫が不機嫌な態度で雅子の体を求めたとき、彼女は、きっと恋人と喧嘩をしたのだと思って喜んだが、二、三日するとまた様子が変って、夫は優しくなり、別れ話を蒸し返した。     2  七月末の晴れた日、孫の顔を見たくなったという口実で母が来た。町工場の工場主の妻は、動きまわる赤ん坊をあぶながって頓狂《とんきよう》な声をあげたり、卓袱台《ちやぶだい》の角をあわてて手で押えたりしながら、会社員の妻の話を聞き、しきりに愚痴をこぼした。それは結局、妹を嫁《かた》づけなければならないし、弟はまだ大学があるし、ここで雅子に戻って来られては困るというこぼし話である。母は、どんなことがあっても別れ話に応じてはいけないし、相手方の女と会うのは殊にまずい、じっとしているのが得策だと教えた。そして、父親はもちろんのことだが、海岸の町にいる叔母がたいそう心配して、こういうときには何か気を変えるといいものだから、親子三人で海水浴に来たらどうだろうと言っていたという話をする。親切な叔母の親切な申し出ではあるが、雅子としては気乗りがしなかった。しかし、さしあたりそれ以外に何か手があるかと言われると、答えることができない。部長に頼んでももう見込みはなさそうだし、また訪ねて行って相談したと聞けば、達吉はいっそう自分を嫌うようになるにちがいないと思った。  海へゆく話を持ちかけると、達吉は意外なくらいあっさりと承知した。雅子がかわいそうだとはかねがね思っていたから、せめてこういう形で慰めたかったのである。叔母に連絡を取ると、折返し返事が来て、二人が海で泳いでいるあいだはあたしが赤ちゃんをあずかるし、何なら夜もあたしが赤ちゃんといっしょに寝ようなどと、立ち入った気の遣い方をしている。雅子は、「大人」がこういうふうに言うのだから、やはりそういうことがいちばん大事なのかもしれないと考えた。夫の立てた計画は、土曜の夜一晩だけ泊り、日曜の午後には帰るというもので、これはすこしもの足りないけれども、我慢することにした。早速デパートへ行って、バーゲン・セールで水着と海水パンツを選んでいると、子供が売り台を伝わってどこかへいなくなったり、気がつくと商品を両手にかかえていたりして落ちつかないが、近頃こんなに楽しく買物をしたことはなかった。水着はさんざん迷ったあげく、やはりビキニはやめて、しかしセパレーツにした。  買物をすませてから、食堂にはいろうかとよほど思ったが、アイスクリームを買って帰ることにした。子供と二つの包みとをかかえて、汗まみれになって歩くことも、小川を埋めた跡の空地の眺めも、今日はさほど辛くない。その空地を見おろす部屋で、シュミーズ一つになってアイスクリームをなめ、ときどき赤ん坊にもなめさせるのは楽しかった。アイスクリームの容器の下にあるドライアイスを、コップのなかの水に入れてあぶくを立たせると、小さな娘はすっかり感心してじっとみつめている。雅子は海辺の叔母の家での夜を、その夜の結果としてのしあわせを、さまざまに思い描いた。それは想像力という他愛もないものを働かせているのではなく、もっとしっかりした、着実な思考であるような気がした。  しかし、海岸では思いがけないことが起ったのである。青と緑と白の、生ぬるくてそのくせ冷たい海で、二人は泳いだ。雅子のクロールはほんの僅かしかつづかなくて、あとは急に犬かきになる。達吉はいつまでも、ゆっくりゆっくりと平泳で泳ぐのだが、ただしこれは顔を水につけない変則的なものである。二人は陽気にはしゃいだ。彼は何度も飛込台まで泳いで行ったが、こう人が多くてはあぶなくて仕方がないという理由をつけて、飛込まなかった。妻は笑った。それから二人は砂の上で休んだが、ここもなかなかこみあっている。メガフォンを持った男が、 「今日は波が高いから注意して下さい」  とお座なりな口調でどなりながら、ときどき廻って来る。しかしその声は、土曜の午後の海水浴場のざわめきにはかなわないし、ときどきみょうにくっきりと聞えても、誰もその言葉に従うつもりはないらしい様子である。二人は、照りつける日ざしと人ごみから逃れて、まだしも人のすくない掛茶屋の店さきへゆくことにした。  氷いちごを食べているとき、達吉はへなへなするスプーンを手にしたまま、とつぜん、林の樹々のあいだをとおして林の外を見るようにして、遠くのほうにじっと視点をすえた。どうしたのだろう、氷いちごが甘すぎて厭だというのかしらと妻は怪しんだ。夫はあわただしく、赤い雪のはいっているガラス器を置き、薄いスプーンを置き、立ちあがり、海へ向って駈けだした。雅子もそうした。人ごみが邪魔で、砂が熱かった。  灼《や》ける砂があと一メートルか二メートルで終るあたりで、彼は急に立ちどまり、転ぶようにして蹲《うずくま》った。そこには碧《あお》い海水パンツの男が横たわっていた。男の肌は魚のように濡れていた。夫はその男の砂まみれの頬を打ったが、彼は身じろぎもしない。雅子は怯えた。  夫は男を仰臥《ぎようが》させ、馬乗りになって、双の掌で男の胸の両脇を押した。淡い色のついた水がすこし、男の口から出た。夫はまた同じところを押しつづけながら、横に立っている雅子を睨み、 「おい、人工呼吸!」  とどなった。妻はしゃがみこみ、 「ねえ、どうするの? 死んでるの? この人」  とおろおろ声で言った。自分では叫んでいるつもりなのにずいぶん小さい声になったし、しかもその悲鳴のような呟きを消すためのように、波の音、拡声器の流行歌、海水浴の人々のにぎやかなざわめきが押し寄せる。 「判らない。死んだのかもしれない。生きるかもしれない」 「どうするの? 人工呼吸ってどうするの?」 「そこへ行って。うん。万歳をさせる。ゆっくり、うん、両手を」  夫が、 「ひとーつ、ふたーつ」  と声をかけ、それに合わせて妻は男の腕をゆっくりと動かした。あるいは、動かそうとしたと言うほうが正しいかもしれぬ。そのセピアいろの腕は、厚く塗りすぎた日やけどめクリームで濡れていてべとべとするし、それに冷たい。クリームの油と砂とがまじりあって、みょうに持ちにくかった。 「駄目だ。代ろう。こっちをやれ」  と言われて、雅子は男の顔を逆のほうからではなく、まともに見おろす位置に行った。その顔は相変らず砂にまみれている。雅子はこわいのを我慢して、思い切って手を伸べ、額から顎《あご》まで掌で撫でおろした。掌の下で、鼻も口も冷たい。三十ぐらいの男の、端正で彫りの深い顔が出て来た。 「そんなこと、どうでもいい」  と夫が怒った。雅子は夫をまねて、男の体に馬乗りになった。臀《しり》の下に男の海水パンツの水気が感じられたので、すこし腰を浮かせる。男の胸は、腕や顔と同じく蛙のように冷たかった。夫は、向い合う位置に片膝を立てて坐り、男の両腕を持って声をかける。 「ひとーつ、ふたーつ」  すぐに手が痛くなったし、爪さきで、膝で、砂が灼けている。三人か四人の男が、だいぶ離れたところに立ってぼんやり見ていた。夫が彼らに、 「救急所へ行って下さい」  と声をかけたが、男たちは、 「うん、救急所……」  とか、 「どこにあるんだろう?」  とか言うだけで動こうとしない。そして彼らと雅子のあいだを、あるいは彼らと水死人のあいだを、若者と娘が、浮袋を持った子供が、笑いながら走ってゆき、おびただしい人出の海へ身をひたす。男の胸には胸毛がなく、その代り、生乾きの砂が胸を飾っていた。腋の下の毛は黒くて細かった。もう水を吐かないので、口のまわりの水の濡れは消え、他の濡れだけが鈍く残っている。誰かがかなり遠くで、 「医者を呼ばなくちゃな」  と独言のように言った。 「瞳孔が……」  と夫が、これも独言のように言った。男の眼は血走っていて、瞳孔はすっかり開いている。 「おい、代ろう」  と達吉が言った。二人は交替した。四人か五人の男と、小さなバケツを持った子供が一人、すこし離れたところに立って、まばらな円形を作って囲んでいた。彼らは三人を退屈そうに見まもっていて、それ以上は近寄ろうとしない。どこかで、 「今日は波が高いので……」  という声がしたけれども、メガフォンの男はどこにいるのか、雅子が横目を使って見ても判らなかった。男たちと子供のまばらな円の後ろに、赤いセパレーツの水着の娘と青いビキニの水着の娘が来て、 「あら、大林さんじゃない? 寝てる人」 「違うみたい」 「大林さんよ」 「そうみたい。どうかしたのかしら?」  と語りあい、しかしそのまま何もしないで立っている。二人は碧い海水パンツの男の知り合いのようでもあるし、赤の他人のようでもあった。 「ひとーつ、ふたーつ」  夫の単調なかけ声につれて、雅子はその美男の大林(?)に万歳をさせつづけた。砂は熱くて日の光は堪えられないくらい眩しい。氷いちごはもうすっかり溶け、ガラス器は運び去られたにちがいないと彼女は思った。  その夜、雅子は叔母の家の六畳の離れで、 「あの人たち、ひどいわね」  と闇のなかの夫に語りかけた。「あの人たち」という言葉は彼女の場合、水着の娘たち(きっといっしょに来た、同じ会社の女の子たちじゃないかしら?)を指していたのだが、夫は救急所の男たちと取った。彼らは三、四人どやどやと寄って来て、 「あ、もう死んでる」 「駄目だな、これは」  と口々に言うと、達吉たちには礼も述べず、事情も訊こうとしないで、水死人を担架に乗せ、運び去ったのである。達吉は自分が愚かしい無駄骨折りをしたような気持になっていた。そして雅子にも、夫と自分の日ざかりの努力が、そう見えないわけではない。 「うん、ひどい。無礼だよ」  と夫は答えた。 「同じ会社なのに、不人情ね」 「うん」 「死んだかしら?」 「そうだろう」 「やっと辿《たど》り着いて、息を引き取ったわけね」 「かもしれない。それとも、溺れてるのを誰かが連れて来て、面倒くさくなって……」 「ねえ、どうして気がついたの?」 「誰かが、人が死んでると言ったのが聞えたんだ。耳にはいった」 「耳がいいのね」 「うん」 「でも、感心しちゃった」 「……」 「だって、あんなふうにすばやく駈けだしてゆけるなんて。帰りのバスのなかで考えたのよ」  雅子は、バスのなかで思ったことを説明した。それは、自分はついうっかり夫に引きずられて走って行ったけれども、もし一人でいたのなら、あんなに無関心な大勢の人のなかで、掛茶屋から飛び出してゆくことも、まして人工呼吸をすることなど(たとえ人工呼吸のやり方を知っていたとしても)できたろうかという疑念である。彼女は高校の一年生のときのことを、今日の出来事と対比して思い浮べた。数学の時間だったかしら、英語の時間だったかしら、とにかくベルが鳴って、先生が間もなく教室に来るはずだった。だが黒板は前の時間の授業のせいで汚れきっている。高校一年生の雅子は、教室の最前列にいて、黒板を拭かなくてはいけないと思いながら、しかしみんなの見ている前で黒板のところへ出てゆくのが恥かしくて仕方がなく、どうしてもそうできなかった。そのとき、すぐ後ろの列にいる生徒が出て行って、黒板を拭いた。その娘は数年後、アメリカをヒッチ・ハイクで旅行した体験談を書いてかなり評判になったから、こんな小さな事件が記憶に残っているのかもしれないけれど。 「だから、ああいうふうに、ぱっと、積極的に走ってゆく態度、とても感心しちゃった」  雅子の話し方には半ば無意識の、と言うよりも半ば意識的な、媚びがあった。その媚びは夫に判ったし、そのこと自体は不愉快ではない。だが、「積極的」という言葉が彼の心に逆らった。それは、普段の彼がそうではないという部長の評価を、妻が素直に受け入れていることを示していたから。  達吉は、戦時中の訓練で人工呼吸を習ったという話をしてから、自嘲気味に呟いた。 「いっこう役に立たなかったな」 「だって、もう、死んでたんだもの」  雅子はそう慰めてから、戦争中に教わったことのあるおさらいとなると、あんなふうに人が変ったようになるのかしら、と怪しんでいた。そして達吉は、つまりあれは小心で消極的な会社員が、夏の浜辺の開放的な雰囲気に浮かれて、水死人を助けようとしただけなのだろうか、と考えていた。しっかり者の娘が色事師に引っかかるように、まじめな紳士が痴漢に変るように。 「うん」  とずいぶん経ってから、独言のように夫は答え、それから彼は、もし自分が今夜、横に寝ている妻に手を出せば、それも海辺の開放感に浮かれてということになるだろうと思った。 「ねえ、あたし、こわくって。あの、べとべとした感じ……」  と雅子は甘えた。事実、彼女は他人の死に怯えていたが、しかしあの逞《たくま》しくて冷たい胸の感触、瞳、淡い色のついた僅かの水、セピアいろの死顔などの記憶は、むしろ欲望をかきたてる役目をしていた。だが雅子の言葉は夫の心に、それら一つらなりの死のイメージを、今までよりももっとくっきりともたらした。彼は恐れ、そして彼女をうとましく思った。夫は妻を、この上なく鈍感な女として見た。 「ねえ、こわい」 「うん」  彼女は手を伸べ、夫の胸にさわった。夫の胸の肉はあたたかくて快かった。肘《ひじ》の皮膚の感触に似た乳は、長くて細いまばらな毛で覆われ、胸毛はもっと長い。雅子はその胸毛を指にからめ、ほどき、またからませた。彼女の手は夫の腹に触れ、さらに降りてゆく。夫の手がその手に触れ、そして妻の手はそっと退けられた。 「厭? ねえ、あたしが嫌いなの?」 「そういう気になれないんだ。あんな体にさわったせいかな」 「……」 「それに……このほうがいいじゃないか。きちんとしていて。でなかったら、かえって厄介なことになる」  妻には、夫の言葉の意味がよく判らなかった。雅子はそれを、夫の恋と自分の別れ話という枠《わく》のなかだけでとらえた。死の恐怖は彼女にとって、夫の逃げ口上としてしか理解できなかったのである。僅か十いくつの年の違いで、空襲や配給の思い出が大事なものになるということは、何とか呑みこめる。彼女にもその程度の想像力はあった。しかし、僅か十いくつの年の違いで、死がこんなに身近なものになり、萎《な》えさせるということはどうしても納得がゆかない。海岸で泊るのは今夜だけなのに。雅子は、ちょうど浜辺に倒れていたあの「大林さん」が水着の娘たちに見捨てられているように、自分が夫に見捨てられたと感じ、絶望した。そしてこの、自分がたった一人でひどい目に会わせられているという、やりきれない悲しさは、前にもいつか味わったことがある。…… 「本当に困りますよ」  と、踊りの名取りだという噂のある婦長は、片手をひらひらさせて雅子に言った。 「ああいう軽はずみなことをおっしゃっては。病院の信用にかかわるじゃありませんか。困りますねえ、御自分の赤ちゃんの顔が判らないなんて」 「はあ」  と雅子が答えた。彼女のほかに五人いるこの部屋の患者は、週刊誌を読むことも、煎餅を食べることもやめて、みな、しんと静まり返っている。 「水野先生も御心配なすって」  と婦長は医長のほうにちょっと顔を向けた。 「たったいま学会からお帰りになったばかりなのに、いらして下さったんですよ。ねえ、先生」  学会で二日ほど関西へ行っていた若い医長は、病室のまんなかの薄くらがりに立っていた。白衣を着ていない、背広のままの医者は、万事は婦長に任せてあるといった様子で、短く、 「ええ」  と答える。そこにいるのは、年上の女に無理矢理に連れて来られた、旅行づかれした男にすぎない。しかし医長まで連れ立って来たことは、産婦の心をますます緊張させた。雅子が、何か言わなければならないとあせって、 「でもあたし、何となく……」  と言いわけのように呟くと、婦長は、 「そんな、何となくだなんて」  と言葉じりをとらえ、そういう無責任な言いがかりは困ると叱った。雅子はすこし身を起しながら、だからあたしは、さっきはいったん疑ったけれど、すぐにあたしの子供かもしれないと言いました、と弁解した。 「かもしれないだなんて、そんな……」  と婦長が低い声で咎めた。その低い声での抑揚には、まったく呆《あき》れたものだという感じが、さりげなく、しかし上手にこめてある。患者の一人、それとも二人が、くすりと笑った。そのとき鞄をかかえた男がはいって来た。残業を終えた夫が見舞いに寄ったのである。  達吉は医長と婦長がいるのに驚いて、 「やあ、どうも」  と言い、あわてて二、三度お辞儀をしたが、それはいかにも、上役の機嫌をとることに馴れている、うだつのあがらぬ会社員のしぐさのように見えた。婦長が事情を説明するのを、夫は神妙に聞いている。一言も口をはさまずに聞いていて、大きくうなずいたりする。それが終ると、医長が、初産婦が陥りやすい興奮状態について、丁寧に言葉を選びながらしゃべった。その話し方は慎重だったが、結局、雅子がヒステリーを起しているのだと言っていることは、彼女にもよく判る。夫がまた大きくうなずいた。そのとき雅子は、自分でもじつに唐突だと思いながら叫んでいた。 「だから、あたしの間違いだったと言ってるじゃありませんか。だから、あたし……」  婦長が何か言い、医長が何か言った。 「なにぶん不行届きで……」  と夫が詫びたとき、雅子はとつぜん泣きだした。泣きながら、夫にひどい裏切り方をされたように感じていた。  その裏切られたという感じを、彼女としては上手に隠しているつもりだったが、夫はもちろん気づいた。また、念のため血液型を調べるよう病院に頼んでくれと言ったのに、言葉を濁してばかりいた夫に対する不満も、秘めていることができなかった。そして雅子のほうが正しかったのだと判ったとき、達吉には、妻の軽蔑が(あるいはすくなくとも尊敬の度合が減ったことが)堪えられないものになったのである。  ただし夫のそういう反応は、雅子には見当がつかなかった。叔母の家の離れの夜ふけの波の音を聞いている今も、ただ途方に暮れて悲しんでいるだけだ。その悲しみのなかには、今、男に抱いてもらえないという悲しさも含まれているのだけれども。彼女は寂しい気持で、あの夜のことを思い浮べる。寝つけなくて眠り薬をもらい、それでもまだ寝つけなかった夜のことを思い出しながら、彼女は眠る。そのそばでは、どうしても眠くならない達吉が、自分より若い男の死顔をまだ心に描いていた。  その水死人はもともと泳げない男で、朝の十時ごろからずっと仲間にはぐれていた、と新聞には書いてあった。達吉はその記事を女教員のアパートで読んだ。雅子は読まなかった。海岸から帰ると、不眠と肩のこりがまたひどくなったからである。彼女は、子供が取替えられたあの病院へ通いはじめ(別の病院へゆこうとするほどの心の張りはなかった)、貧血の注射をしてもらい、眼科へ廻された。眼鏡をかけるようすすめられたが、なるべくならかけたくないと答えると、それなら当分このままで模様を見ようとのことだった。  肩こりがなかなか直らないので、毎日あんまに来てもらったが、いっこうはかばかしくないし、腰までこりはじめる。あんま代も馬鹿にならないので、すこしでも安くあげようとして、こちらから出向いてもんでもらうことにした。あんまは、長い時間かけて散歩することをすすめた。しかし乳母車を押して歩くのでは、かえって肩や腰の疼《うず》きが増すような気がするので、結局、妹が洋裁の学校へゆかない日、つまり週日のうち三日、一日おきにきてもらうことにした。  こうして雅子は火木土の午後、子供は妹にあずけて近所を歩きまわるようになった。一時間ぐらいの散歩ではあまり効き目はないが、二時間も足早に歩けば、肩や腰の重苦しさも取れるし、夜もよく眠ることができる。彼女は散歩のおもしろさに熱中し、ずいぶん遠くまで歩きつづけるようになった。第一、これ以外には、育児という義務がごく稀にもたらす楽しみを除けば、何の娯楽もなかったのである。  ある日の午後、雅子が散歩から帰ると、川を埋めた跡の空地で妹が縄とびをしていた。顔を真赤にして懸命に跳びつづける妹の姿は、いかにも若々しくてかわいらしい。子供は眠っているのかしらと思ったとき、妹からすこし離れたところに若い男が立っているのに気がついた。そして彼の青い木綿のズボンに、子供がまつわりついている。小さな娘は大はしゃぎで母親へ寄って来た。雅子は妹と若者にほほえみかけた。妹はいったん縄とびをやめたが、姉に言われてまたつづけようとし、しかし気勢をそがれたため休んでしまって、大声で笑いだす。雅子は子供を抱いてアパートへはいった。  妹はしばらくすると帰って来て、まず何杯も水を飲んでから、若者が大学のボクシング部の部員だという話をした。ただしもう四年生で、合宿から出て家にいるし、いわば習慣でトレーニングをやっているだけなのだけれど。妹は子供を遊ばせていて、学生と知りあったのである。彼がやらせられた辛いトレーニングの話の受売りをするとき、妹の口調にはあらわな英雄崇拝があった。  行水をしている妹に、子供と遊んでいる姉が声をかけた。 「拳闘の選手なのに、鼻がつぶれたりしてないじゃない」 「プロじゃないもの」 「ちょっとハンサムね」 「あら、姉ちゃん、あんなのハンサムだなんて」  バスタオルを腰から胸に巻いて出て来た妹が笑った。そして姉は、いったいこの妹はどういう男とどういう結婚をすることになるだろうと考えていた。  翌日は妹の来ない日である。子供がしきりに外へ出たがるので、雨が降りだすかもしれないとは思ったが、昼近いころ、靴をはかせて買物に出た。八百屋と魚屋に寄ってから、小川の跡ではないほうの道をゆっくりと戻って来ると、眼の前で自動車が急停車した。そして、運転している男とそのそばの女が、雅子に、というよりもむしろ子供に、明るくほほえみかける。最初、彼女には二人とも判らなかった。雅子はただ驚いて、何かの間違いではないかと思っていたが、すぐに、見おぼえのある女だということが判った。そのとき男は、車を向いのアパートの門のなかへつっこんで、端へ寄せた。まず女が、次いで男が、自動車から降りる。訪問着を着ているのでちょっと判らなかったが、子供の取違えのときの相手——ピアノ教師であった。男はその夫の税理士にちがいない。彼は黒っぽい背広を着ていた。  夫婦は、子供が大きくなったし、ずいぶん元気そうだと陽気に褒めちぎり、かわるがわる抱きあげた。娘の顔が雅子にそっくりだとピアノ教師が請合い、そして夫はその意見に賛成する。税理士に抱かれたとき、子供は泣いた。税理士は妻に叱られて、大げさに頭をかいてから、一年ちょっと前の事件の思い出話をはじめた。雅子は相槌《あいづち》を打ちながら、適当なところで向うの子供の成長ぶりを訊ねなければ失礼になると考え、必死になっていた。ただしその機会はすぐに訪れ、彼女は重荷をおろしたように安心したのだけれども。税理士の娘は、疱瘡《ほうそう》がよくつきすぎて困ったほかは、いたって元気なのだそうである。夫婦は、娘が非常に食欲があるのはどちらのほうの遺伝なのかということについて、軽い言い争いをして見せたが、それはまるで台本があって、何度も稽古をした漫才みたいにイキが合っていた。雅子は、ずいぶん長いあいだ微笑を浮べつづけたあげく、もう我慢ができなくなって、 「でも、本当にようございましたわね」  と口をはさんだ。 「よかった。じつによかったですよ。不幸中のさいわいというのは、ああいうことですな。一時はひどく心配しましたが、しかし……」  と税理士は言った。やがて、彼はあわてて時計を見た。これからパーティに出かけるところなのだそうである。 「いや、八月の真昼間の会なんて、まったく迷惑な話ですな。会そのものは冷房がきいていますが、何しろ途中が……」  夫婦が自動車に乗り、ピアノ教師が母子に手を振ると、雅子が見のがさなかった黒真珠の指環は、仄暗い車内でいっそう豪華に輝くような気がした。彼女は、去ってゆく小型の車をこの上ない幸福のしるしとして見送ってから、抱きかかえている娘の重さに悩みながら、眉をひそめてアパートの階段を昇った。  その夜、今夜はもう帰ってこないと諦めかけたころ、鍵孔で小さな音があった。夫である。前にもそうだったが、恋人ができてからの夫はいっそうひっそりと階段を昇り、扉《とびら》をあける。その遠慮が妻に対してなのか、それとも隣り近所の人々に対してなのかは、達吉自身にもよく判らないが、とにかく彼は何かに気兼ねしていた。  雅子がすばやく迎えに出た。妻が曖昧に微笑すると、夫もまるで鏡のように、それと同じ表情になった。風呂から出た達吉は、はしゃいでいる娘を抱いたまま、自分もはしゃぎながら食事をする。彼は、これは食べさせてもいいかといちいち念を押してから、小さくちぎったトマトや魚を、小さくて柔かい口に入れてやる。そして雅子は、そのときそのときの調子で、この子といっしょにいる限りあたしは離婚しなくてすむと安心したり、これだけかわいがっているのだからきっと娘は連れてゆかれると心配したりするのだ。しかし、この晩は違っていた。妻は夫と娘の前の椅子に腰をかけて、今日の出来事について早口にしゃべった。達吉もこの偶然の出会いの話をおもしろがり、一つぼくたちもあの子供がどんなに大きくなったか見にゆこうか、などと、離婚の話などつい忘れて口走る。妻は、夫が嬉しそうに話を聞いているという事実に興奮した。雅子はしゃべりつづけ、子供を受取ってからもまだ話しつづけ、そしてとうとう、夫には言うまいと思っていたことまで口にしてしまう。 「でもやはり税理士なんて、チャッカリしてるわね」  と彼女は言ったのだ。 「それはそうさ」  と夫は爪楊枝《つまようじ》を使いながら言った。 「そんなこと、決っているじゃないか」 「入院料を棒引きさせたんですって。払い戻しさせたわけね」  さっき税理士は、 「一時はひどく心配しましたが、しかし、ものは考えようですよ。おかげで只になったわけですからな、奥さん」  と雅子に笑いかけたのである。税理士の妻も笑った。二人の表情に誘いこまれて、雅子もわけが判らぬまま愛想笑いをした。しかし彼女は一瞬のち、この夫婦は入院料を棒引きにさせたのだ……そしてあたしたちも当然そうさせたと思っている、と気がついて驚いた。雅子はできるだけさりげなく、愛想笑いをやめるようにした。このとき税理士はあわてて時計を見た。…… 「ふーん」  と達吉は呟いた。しかし雅子はまだその話をつづけた。 「損しちゃったわ、あたしたち」  達吉は黙りこんでうつむいた。雅子は、まずいことを言ったと狼狽しながら、しかし何とかしてこの場を取繕《とりつくろ》おうとして、 「でも、お金なんかどうでもいいけど。そんな強請《ゆすり》みたいなことをするのは、品《ひん》ないわよね」  と言った。夫は黙っていたが、やがてそっと顔をあげて、低い声で、 「本当か?」  と訊ねた。 「……」 「本当か? 雅子。本当にあのお金、惜しくないのか?」  夫はそう訊ねてから、大きく欠伸《あくび》をし、立ちあがって自分の部屋へ行った。  妻は、こういうときに泣けば、くやし泣きということになると思いながら、しかし泣かないでいた。泪が出なかったのである。眠ってしまった子供を膝に乗せたまま、彼女は去年の初夏のことを思い出していた。退院の日の午後おそく、達吉が迎えに来てくれて、会計へ精算しに行った。夫が帰って来ると、もうきちんと着替えをして赤ん坊を抱いている雅子は、 「ねえ、どのくらい値引きしてあったの?」  と小声で訊ねた。達吉は曖昧に首を振った。雅子は奪うようにして請求書を取り、それを調べてから、 「ねえ、こんなことってあるかしら。こんなことってあるかしら」  と嘆いた。それには、退院したいと申し出て無理に引き止められてから今日までの入院料はもちろん(彼女はその費用が引いてあるだろうと楽しみにしていたのだ)、親子三人の血液型の検査の費用まで書き出してある。  病院に交渉して値引きさせてくれ、と雅子は達吉に頼んだ。だが夫は、一応は言ってみたのだが、とか、間違いはないのかと何度も念を押した、とか、煮えきらない返事ばかりしている。二人は廊下の隅へ行った。まだ抱き方が下手な雅子には、蟹《かに》のように泡を吹いている、生れたばかりの赤ん坊がけっこう重かった。看護婦や患者が、二人を横目で見ながら通ってゆく。雅子は同じことをくどくどと哀願し、しまいには、せめて血液型の検査の料金だけでも何とかするよう掛合ってほしいと言った。達吉は、君がこんなつまらぬことにこだわるのはやはりお産の興奮のせいだとたしなめて、薄ら笑いを浮べたり、こわい顔をしたりする。薄ら笑いも、こわい顔も、どちらもひどく感じが悪かった。妻は夫のそういう表情を憎んでいた。が、そのくせ雅子は、それなら自分で病院に交渉したらいいと言われやしないか、心配でならなかったのである。彼女は病院を恐れていた。……  娘をベッドに寝かせ、灯りを仄暗いほうに変えてから、雅子は自分を励まして夫の部屋へ行った。夫は机に頬杖をついて、煙草を喫っていた。 「ねえ、蒲団を敷きますから」 「いい。自分でする」 「ねえ……」  妻としては、手早く夜の支度をすませてから、何でそんなに怒っているのかと空とぼけて訊ねるつもりであった。そして、そう訊ねながら夫のそばに坐り、甘え、誘うことさえ予定していた。しかし彼女は机の上を見てしまう。そこには灰皿ひとつのほかは何もない。普段ならばきっと、切符のコレクションや、先月と今月の時刻表や、鉄道趣味の雑誌の新しい号がひろげてあるのに。雅子はすばやく本棚を見た。そこにはたしかに二種類の雑誌のバック・ナンバーが、時刻表が、きちんと並んでいる。彼女は安心した。しかし妻の安心は長くはつづかない。本棚の隣りにある戸棚が空になっているのを、彼女は知ったのだから。曇りガラスの戸の向うに見えるはずの、カメラや映写機の黒い影は、どこを探しても見当らない。雅子は立ちすくんだまま、やがては鉄道雑誌のバック・ナンバーも、古い時刻表もみな、女教員のアパートへ運び去られるのだと思っていた。そのとき夫が振り向き、静かな口調で、頼むから別れてくれという話をはじめた。     3  幅の広い道にはおびただしい車が荒ら荒らしく流れていて、トラックやコンクリート・ミキサーは、吼えたりかすかに軋んだりしながら、すばやく通り過ぎてゆく。雅子はとつぜんこんなところに出たことに驚きながら汗を拭いたが、信号が青になるとごく自然にその大きな通りを突っ切った。車の置いてない駐車場とパチンコ屋のあいだをはいってゆくと、不意に、もういちど町の様子が変った。狭くてひっそりした道で、自動車は一方通行になっているのだが、通り抜ける車も何となく場違いな感じがする。両側には異様に古びた店が並び、その黒ずんだ古風な造りと、真新しい看板やポスターの派手な色とが、奇怪な対照を作っている。その対照が彼女を考えこませ、ひっそりと落ち着いた店々をみつめさせた。菓子屋、茶と急須《きゆうす》の店、仏具屋。とうとう雅子は、これは戦災にやられていない、昔のままの通りなのだということを悟った。それは子供のころへ——と言うよりもむしろ生れる前の過去へ、はいってゆくような感じである。呉服屋、そして花屋。雅子はあたりを見まわしながら歩きつづけた。  すこしゆくと右手に低い石の柵が見え、寺の境内らしかったが、彼女はそれよりも、左手にある大きな建物を意識にとめた。それはまるでテレビに出てくる宿場町《しゆくばまち》の本陣のような構えで、二階建てだが、普通の家の三階建て分くらい丈《せい》が高い。雅子は振り仰ぐようにして、これも全体に古びて黒ずんでいる家を眺め、きっと宿屋にちがいないと思った。大ぶりの瓦や櫺子窓《れんじまど》から推して、ひょっとすると何百年も前に建てられたのかもしれない。だが、長いあいだ眺めていたあげく、奇妙なことに気がついた。きびしい残暑だというのに、窓も玄関もすっかり閉め切っているし、人気《ひとけ》がないのである。玄関の大きなガラス戸の隅に、踊りの温習会のビラが色褪《いろあ》せて貼ってあるが、それは今年の春の会のものであった。もう廃業した宿屋なのだ。そう思って、改めてこのおかしな建物を眺めると、軒も柱も朽ちているような、今にも崩れ落ちて来そうな気がした。  宿屋と向い合うようにして、ただし道路からかなり引っこんだところに山門がある。それは大きくて古びていて、いかにも格式の高い寺らしいと思われたし、寺の名もうっすらと覚えがある。雅子は、するとこの通りは門前町の名残りで、昔、お参りする人々がこの宿屋に泊ったわけかしら、と考えた。道路と境内とを隔てる、灰いろの石の柵は、歌舞伎の役者や芸者屋や火消し、魚河岸の料理屋などが寄進したもので、雅子も名前を知っている役者が一人いたが、石の崩れ方から見ても一代や二代、いや、もっと前の人にちがいない。  石の柵のこわれている箇所から境内にはいり、斜めに山門へ向ってゆく。汚れた山門には、草鞋《わらじ》の代りというつもりなのだろう、ビニールのサンダルやスリッパが五足か六足、紐で結びつけてあって、スリッパは雅子の家の便所に置いてあるものとよく似ている。彼女はくすくす笑ったが、すぐに、自分のその笑いにはいくらかわざとらしい、無理に笑ったような感じがあることに気づいた。山門をはいって左手に、爺さんが一人、机に向って線香を売っている。三本十円の線香を買い、火をつけてもらってから、本堂と山門のちょうどまんなかの小さな御堂をいっぱいにふさぐ大香炉に立てると、線香の煙はさまざまの方向に流れた。こんなに暑い日でもやはり風は吹いているのだ。  薄暗くて広い本堂のどこかで、坊さんが一人か二人、いい声でお経をあげている。賽銭《さいせん》をあげようと思ったが、線香を買ったからいいという理屈をつけて倹約することにし、本堂の階段の下でちょっと手を合わせた。本堂と、その後ろのもうすこし小さな御堂の横の、樹のまばらな庭を歩いてゆくと、樹蔭に石の腰かけがいくつかあって、さっきまでの町中の雑沓《ざつとう》が嘘のような気がするほど静かで涼しい。石の腰かけでは男が一人、昼寝をしていた。仄暗い裏庭の林を遠く横に見て進むと、鉄の門があり、それを通り抜けると不意に視野が開けた。  それはこの寺の墓地で、呆れるくらいひろびろとしているし、墓の列は遠くに見えるだけで、手前の半分はまだ空いている。その、前半分の空地のうち、敷石の道と並木とで区切られた左側には、何百年も経ったと思われる大木が五、六本、ゆったりと、高く聳《そび》えていた。樹々の太い幹は、白く鈍く夏の日ざしを浴びていたし、葉の茂みは高いところで風に揺れている。あのくらいの高さになれば、もう初秋の風が吹いているのではないかという気がした。そして並木の右の、伸び放題の草原では、子供たちが野球をしている。雅子は敷石の道を楽しい気分で歩いて行った。よく晴れているせいか、それとも子供たちの声がにぎやかなせいか、普段と違って墓がちっともこわくない。墓石や卒塔婆の字も、気味の悪い感じがしなかった。  一まわりすると原っぱへ出たが、野球をしているのは子供たちだけではなく、大人もいっしょだった。投手をはじめ、子供はみなユニホームだが、捕手その他の若者たちは開衿シャツや上半身裸である。見物の大人をまぜて、ようやくチームが二つ出来たものらしい。雅子は審判の後ろに立って見物したが、そこには試合に加わっていない若者が一人、腰をおろしていて、捕手の取りそこねた球を投げ返してやる。その若い男だけはピンクのスポーツ・シャツを着ていて、ほかの連中とすこし感じが違っていた。  しばらくして雅子は、 「あら、フォア・ボールじゃない」  と呟いた。その独言は、しかし意外に大きな声になったので、審判や捕手や、それから攻撃側のチームの者がいっせいに彼女を見た。顔を赤らめた雅子に、球拾いの若者が、すこし甲高い声で、 「フォア・ボールなし、らしいんですよ」  と教えてくれた。 「どうして?」 「どうしてって。つまり、ストライクはなかなか投げられないから」  その口調から、野球をしている大人や子供とは知りあいでないということが判った。きっと夏休みの学生で、あたしと同じように散歩の途中、引っかかったのだろうと考えていると、彼が野球のことを話しかけ、こうして二人はテレビのことやこの寺のことを話し合うようになる。雅子は話をしながら、この若い男の顔はあの水死人に似ていると思った。年はずっと若いし(あたしより二つか三つ下かしら?)、それに体つきもあの海辺の男より痩せているけれど、ちょっとした美男で、殊に甘い感じの笑顔がいい。球が来ても、話にかまけて彼がもう拾おうとしないため、攻撃側のチームの者が追ってゆくのを見て、彼女はなぜか嬉しかった。  話のとぎれたところで、雅子が挨拶して立ち去ろうとすると、若者も、 「じゃ、ぼくも帰ろう」  と呟きながら立ちあがった。そして鉄の門を通り抜けると、 「あの林がぼくの好きなところなんだ」  と言い、横のほうへすたすた歩いてゆくので、雅子はやむを得ずついて行った。  それはたしかに感じのいい林で、かなり大きな樹が茂っているため樹蔭が涼しいし、木洩れ日の斑《まだ》らな模様が静かで優しい。殊に木立のまんなかのへんに、雅子の丈《せい》よりもすこし高いくらいの、小さな細い樹々がまばらに植えてあるのがかわいらしい。それは、すぐそばにある大きな樹と同じ種類で、その樹の子供たちのように見える。どこか山のなかの、植林したばかりのところへ来たような感じがした。 「別世界みたいでしょう」  と若者が自慢しながら切株に腰をおろし、すぐそばの切株の埃《ほこり》を払ったので、雅子も腰をおろさぬわけにはゆかなくなる。二人はそこでまた話をした。この小さな木は何という樹かと彼女は訊ねたが、彼は知らなかった。ただ彼は、その少年のように痩せた樹々がみな、新しい藁《わら》で巻かれているのを見て、 「お揃いのバーバリだ」  と言って雅子をほほえませた。おしゃれな人なのね、と彼女は思った。 「ほんとにいい所ね」 「でしょう」 「川が流れてれば、もっとすてきなのに。このへんに」 「贅沢だよ、奥さん、それは」  雅子は、あたしに夫があることがどうして判るのだろうと怪しんだが、しかし、いかにも奥さんらしい様子に見えるのだろうと得意になった。彼が立ちあがって、いちばん近くの若い樹のそばへゆくと、雅子も彼に寄り添った。若者は樹のバーバリをちょっとぬがせ、幹の肌を見ようとした、そのとき藁の衣裳のあいだから、灰いろの小さな虫が飛び出す。 「こおろぎかしら?」 「ばったかな?」  二人には植物の知識も動物の知識もなかったが、それでいてけっこう楽しかった。  山門を出るとき、線香売りの爺さんは雅子に、 「先程はどうもありがとうございます」  と丁寧に会釈した。若者は、 「どうしたんです?」  と不審がったが、彼よりすこし年上の、大柄な、しかしかわいい顔立ちの若い人妻は、曖昧にほほえむだけで説明しようとしない。男は、 「意地わるだな、教えてくれないなんて」  と甘えた口調で言った。雅子は、この人は今までお線香を買ったことが一度もないのだと思い、それにひきかえ自分がいかにもお姉さんらしいような気がして嬉しかった。  若者の帰る方角は雅子のそれと同じで、二人はそのことを喜んだ。しかし彼は、信号の前まで来たとき、 「あっ、ちょっと待ってくれない」  と叫ぶように言って引返し、古風な構えの菓子屋へはいった。そして小さな包みを手にして、すこし照れながら出て来る。 「何を買ったの?」 「教えてあげない。さっき、教えてくれなかったから」 「まあ」  そのとき信号が変った。交叉点を渡ると、若い男は包装紙をすこしやぶいて、なかを見せてくれた。南京豆である。 「あら」 「殻のついたままの南京豆が好きなんだ。取ってあるのはイカさなくって」  雅子は、達吉の好みも同じだということを口に出さなかった。南京豆の殻はビニールの袋のなかで、さっきの丈の低い樹の幹を包んでいる藁の色、あるいはバーバリの色に輝いている。透きとおる薄いビニールは、まるで飾り窓のガラスのように、その灰いろがかった黄いろを引き立てている。そう思ったとき、若者は、 「こいつも生意気に、バーバリを着てる」  と呟き、呟きながら横町にそれた。雅子もそれに釣られて横町にはいったのだが、彼はじきに、 「ここにいるんです。さよなら」  と言い捨てて、木造のアパートの二階へゆく非常階段を昇った。置き去りにされた形の雅子は、ピンクのスポーツ・シャツが斜め上に動いてゆくのを眼で追いながら、これではこちらが挨拶する暇がないと、すこし不満に思った。  アパートに帰ると、ちょうど小さな娘が木のべッドの柵を越えようとして苦心しているところだった。さんざん泣いたあとらしく、顔に泪のしみがあるし、汗疹《あせも》がひどくなっている。子供を抱きかかえて、妹はどこへ行ったのかしらと窓際に寄ると、下の空地で、ボクシング部の学生の縄とびに見とれていた。学生の縄とびはさすがに激しくて、白いロープは猛獣使いの鞭《むち》のように鳴っているし、若者の体は獣のようにしなやかで、汗の匂いがここまで立ちのぼって来るようだ。姉は険しい声で妹を呼んだ。  妹は不機嫌な顔で戻って来た。その表情が厭だったせいかもしれぬ、雅子は、娘がどんなふうにしていたかを詳しく話し、あぶないから注意してくれなければ困ると言った。妹はうつむいて、黙りこんでいる。雅子はその無言を反抗として取り、 「ボーイ・フレンドと遊ぶのもいいけど、子供のほうも大事じゃない」  と、長い散歩の途中に自分がしたことは棚にあげて咎めた。彼女はあの派手なシャツの若者を、「ボーイ・フレンド」として意識していなかったのである。  妹が姉を睨み、まるで独言のように、 「焼餅やいてる」  と言った。 「何、焼餅だなんて」  と雅子は大きな声を出したのだが、 「兄ちゃんに捨てられたもんだから……」  と答えられて、思わず息を呑んだ。自分の顔が青ざめてゆくのが、胸の、腋の下の、汗が冷えてゆくのが、よく判る。しかし、 「何てこと言うの」  と雅子がふるえ声で言ったとき、妹はとつぜん顔をゆがめて泣きだし、両手で顔を覆った。子供が卓袱台の上にコップの水をこぼしたので、雅子が拭くと、それがおもしろいのだろう、小さな娘はわざとまた水をこぼす。雅子はそれをまた拭いた。すると小さな娘は母の顔色をうかがいながら、もういちど水をこぼす。雅子は子供をぶった。妹は浴室を兼ねた洗面所へはいって行ったが、やがて腫れぼったい顔で出て来て、 「姉ちゃん、あたし、もう帰る」 「素麺《そうめん》ゆでるから、食べてかない?」  とすすめても、振り切るようにして妹は帰った。雅子は階段の足音を聞きながら、これでもう本当の母ひとり子ひとりになったわけだと考えて、汗疹だらけの子供を抱きあげ、きつく抱きしめた。  しかし翌々日、諦めていた妹は来てくれたし、機嫌も別に悪くない。普段と変らない調子で、 「明日か明後日、父ちゃんが来るって」  と言伝てを伝えた。 「明日なの? 明後日?」 「どっちからしいわ」 「何の話かしら?」  と姉が呟いても、妹はそれにはとりあわないで子供と遊びはじめた。  雅子は午後になると、母が持たせてよこした種なし葡萄《ぶどう》を三人で食べてから、また散歩に出たのだが、足はごく自然に、あの古い寺の方角へ向った。そして、あの原っぱにも林にも、一昨日の若者の姿を見かけないとき、自分が失望していることに気がついて驚いたのである。ただし彼女は、その失望を実際よりもずっと小さく見積っていたけれども。草原には人っ子ひとりいなくて、二日前のにぎやかさは嘘のような気がした。彼女は林の切株に腰をおろし、長いあいだぼんやりしていた。  父が夫婦仲のことを心配して訪ねて来ることは判るが、具体的にどんな話を持ち出すのかは見当もつかない。どうせ名案が浮ぶはずはないと思ったり、ひょっとすると夫の恋人の名前や勤めさきを調べてくれたのかもしれぬと考えたりしながら、林を眺めていると、日光の加減のせいか、今日はこの林があまりきれいでないような気がした。雅子は、いっそあの女に会って身を引いてくれと頼もうかとか、あたしだってまだじゅうぶん再婚できる若さだとか思ってみるが、これがどれもこれも、実行する気のない空想にすぎないことは、自分でもよく判っていた。彼女は身をのけぞらせるようにして空を仰ぎ、吐息をついた。そして、空から樹々の梢、梢から足もとの地面へと視線を移して来ると、寺男が掃除するらしく箒《ほうき》のあとがついていて、塵ひとつないし、それだけでなく、二箇所ほどに米が撒いてある。鳥を呼ぶためなのだ。ただし、鳥はさっきからどこか高い梢で鳴いているけれども、一羽も降りて来ない。雅子は、あたしがいるせいで来ないのかもしれないと考え、あわてて立ちあがった。  山門を通り抜けてから、今日は線香をあげなかったことに気がついたが、考えてみると、線香売りの爺さんを見かけなかったような気もする。雅子はそのまま境内を出た。通りに並ぶ店のなかで、殊に菓子屋には昔の感じが残っていた。店さきのケースにしても、今はどこでも見かけない、ガラスの蓋がついた、平べったい木の箱なのである。戦前からあるキャラメルやチョコレートの意匠は、その無骨な、頑丈一点張りの箱の底で、のんびり寛《くつろ》いでいるように見えた。そのなかの一つには、ココア・シガレットがはいっていた。雅子は子供のおみやげにそれを一箱、それから、夫が喜ぶにちがいないと思いながら、殻つきの南京豆を一袋買った。昨日は帰って来そうなものだと当てにしていたのに、鍵穴の小さな硬い音はとうとう鳴らなかったから、今夜こそきっと帰るはずだと考えたのである。  しかし雅子はまっすぐに家のほうへ向わず、横町へ曲ったし、あの非常階段のついている青い木造アパートの前まで来ると、ちょっと寄ってみようという気になった。いちど会ったきりなのに、ずうずうしくないかと迷ったけれども、彼がどんなにびっくりするだろうと思うと、すっかり楽しくなって、もうとてもよすことができない。  下から見たよりもずっと傾斜が急な非常階段を昇ると、細い廊下に沿って部屋が四つ並んでいた。四つの部屋の、これも青い扉は、名札の貼ってあるのやないのや、さまざまである。そして彼女はこのときになってようやく、一昨日の若者の名を自分が知らないということに気がついた。雅子は自分の迂濶《うかつ》さに呆れ、 「あら、ひどいじゃない」  と独言を言った。どこかで電話のベルがいつまでも鳴りつづけていた。廊下の隅にはしおれた向日葵《ひまわり》の花が一輪、捨ててあった。彼女は、遠い電話のベルの音を聞きながら、そして埃まみれの向日葵の花を眺めながら、たたずんでいた。が、そのとき突き当りの手洗いの扉が急にあいて、あの若い男が出て来たのである。彼女は喜ぶよりもむしろ驚いた。そして若者は、驚くよりもむしろ喜んだ。  雅子は、ちょっと顔を見るだけのつもりだったのだからこれで帰ると言い張ったが、彼は自分の部屋へ案内したがるし、男の部屋を見たい気持が彼女にないわけではない。雅子は彼の部屋へはいった(その部屋の扉には、藤田洋次という名を名刺の裏に書いたものが貼ってある)。畳は黄いろっぽく古びているし、天井にはどういうわけか細長く切った新聞紙で目貼りがしてある。壁も窓もずいぶん汚れているけれども、部屋のなかはきちんと片づいていた。窓はあけはなしてあるし、扉は半分ほどあけておくことにしたが、それでも風通しが悪くて暑苦しい。  藤田は玩具のように小さいビニールの扇風機を、重ねた本の上にのせ、雅子の顔に風がゆくようにしてくれた。彼女は、娘にこんな扇風機を買ってやれば(もうすこしさきの話かしら?)喜ぶのではないかと思ったが、このことは口に出さないでいた。風はそれだけでは足りなくて、二人は団扇《うちわ》を手にしてせわしなくあおいだ。藤田は一つしかない座蒲団を客にすすめたが、雅子が遠慮したので、どちらも畳の上に坐ることになった。彼は、この夏はアルバイトでずいぶん稼いだけれども、遊ぶのに費ってしまって、結局、帰省できないでいる、また別のアルバイトを探して、新学期までこうしているつもりだという話をした。そして雅子は、今日もあの林へ行ったという話をしてしまうと、あとはもう話題がない。海へ行ったことを話しだしたが、途中で、あなたの顔立ちはそのときの水死人に似ているという話は避けなければならないと気がついて、どうしたらいいのか困ってしまった。しかしそのとき、南京豆の袋をさしだすことを思いついたのである。学生は笑いながら南京豆をむきはじめた。黄いろっぽい灰いろの厚い殻がむかれ、赤っぽい茶いろの薄い皮がむかれ、レモンとチーズの中間の色をした楕円形の実が若者の口に入れられるのをみつめながら、こういう若々しい男がものを食べるところはなかなか魅力があると雅子は思った。  そのとき戸口で声があった。 「洋ちゃん。お客さんかい?」  振り向くと、五十ぐらいの肥った男が立っていた。リボンを巻いた鳶《とび》いろの帽子をかぶっていて、両手にびんを一本ずつ下げている。 「ああ、長谷川さん」 「長谷川さんだなんて水くさいね、この人は」  長谷川は、はいれと言われないのに、靴をぬいであがった。赤い顔をしているところを見ると、すこし酔っているらしい。藤田はすこし迷惑そうにしていたが、五十男はビールを置いて、坐り、それから帽子をぬいだ。髪はだいぶ薄くなっているし、顔は、肉がつきすぎてしまりがない感じである。近所に住んでいる叔父さんか何かなのかもしれない、きっとこのアパートもこの絵かきの叔父さんの世話で借りたのじゃないかしら、と雅子は思った。絵かきかもしれないと考えたのは、長谷川のスポーツ・シャツが、女ものの、紫がかった灰いろのレース地で作られていて、当然、下着が透けて見える、風変りなものだったからである。 「冷たいね、冷しビールというのは。便利は便利だけど。洋ちゃんと|二人で《ヽヽヽ》(そこにはかすかに力点が打ってあるように感じられた)飲もうと思って買って来た」  と長谷川はみょうに愛想のいい口調で、誰に言うともなく言った。 「あたし、もうこれで失礼するわ」  と雅子が立ちあがりかけると、藤田は、いっこう構わないのだと言って熱心に引き止め、長谷川にも同意を求めた。五十男は、その通りだと大きくうなずき、いかにもこの部屋のことはよく知っているらしい様子で、隅の小さな流しですばやくコップを三つ洗う。彼らの前の畳の上に、二つは赤い線で漫画が描いてあるガラスのもの、もう一つは青いプラスチックのうがいコップが置かれた。  さんざん遠慮したあげく、せめて形だけでもと言われて、雅子はビールをついでもらった。彼女はそっと口をつけるだけにしたが、男たち、殊に長谷川のほうは、まるで水を飲むようにしてビールを飲む。僅かばかりの南京豆が彼らの肴になった。長谷川は、モツ焼きを買おうとしてついうっかり忘れたことを、学生と「きれいなお客さん」にくどくどと詫びた。藤田は二人の客同士を紹介しようとしなかったのである。もちろん、たとえ紹介しようとしても、彼は雅子の名を知らないのだけれども。雅子は長谷川の、レースのスポーツ・シャツを褒めた。 「ああ、これね」  と彼は言って、汗で黒ずんだ菫《すみれ》いろのシャツをつまみ、 「洋ちゃんにもお揃いのをあげたのに、どうして着ないの?」 「どうしてって。何となく」  と藤田は不機嫌に答えた。 「秋には一つ、お揃いのカーディガンを着ようね。黄いろい、細手の毛糸で編ませて」  と五十男はみょうに媚びのある口調で言い、ハンカチで顔を拭いた。ビールがなくなった。 「御馳走様。とてもうまかった」  と学生は五十男に軽くお辞儀をして、 「ぼく、これから奥さんをそのへんまで……」 「あら、いいのよ」  と雅子は頓狂な声を出したが、学生は押しかぶせるようにして、 「いいんだ。かまわない、かまわない……」 「つまり、帰ってくれというわけね」  と長谷川はにやにやしながら言った。 「ええ、まあ」 「じゃ、帰りましょう。いいですよ。お邪魔しましたね」  長谷川は戸口へゆき、靴をはいたのだが、向うむきになって頭を下げる姿勢で、股のぞきしてこちらを睨みつけるさかさまの顔を、雅子は見のがさなかった。それは唇をきつく噛んでいるゆがんだ顔で、唇の真下には鼻や眉がねじれている。彼女は怯えながらも、しかしこの男がべつに機嫌をそこねたわけでもないと考えたかった。それゆえ、さかさだし、翳になっているのでああ見えたのだと、廊下を遠ざかってゆく長谷川の足音を聞きながら考えた。  学生が這うようにして戸口へ寄り、戸をしめた。 「あら……」  あたしはもう帰りますからと彼女は言うつもりだったが、若い男は唇に指を当てて、 「しっ!」  と真剣な表情でささやく。  そのとき長谷川が非常階段を、今までの足どりとは打って変った、まるで地団太を踏むような激しさで駈け降りて行った。鉄の踏板の連打される音は、邪魔者あつかいされた男の怒りをはっきりと示す。藤田は雅子と顔を見あわせ、ズボンのポケットから黒い鍵を出して、内側から錠をおろした。すると雅子にも、この際どうしても鍵をかけるのが必要なような気がしてくる。 「どういう人?」 「うるさくて困るんです」 「こわい」 「大したことはないんだけど。今日は酔ってたから」 「厭ねえ」  長谷川のことは早く忘れようとして、彼らは寺の林のことを語りあった。雅子は、じつは今日、あなたに会えるかと思って、あの林へ行ったけれど、いないのでがっかりしたと打明けた。それはすこし不正確な話し方のように思われたが、言い直すのも面倒だし、それにどう言い直せばいいのかも判らない。ひどい間違いではないからかまわない、と彼女は心のなかで言い訳した。そのとき、自分の言葉が控え目な恋の告白として受取られるかもしれぬということには、雅子は思い及ばなかった。そして学生はそう打明けられて喜んだし、その笑顔にはたまらない魅力がある。彼女はつづけて、あたしがいるせいで鳥が米を食べられないと困ると思い、大急ぎで引上げたという話をした。藤田は、透きとおる明るい声で笑った。 「優しい人なんだな。好きだ、そういうところ」  と彼は言って、雅子の手を取った。彼女は、あたしはちゃんとした奥さんだからこんなふうに手を握られてはよくないと思いながらも、しかしこうしていることの甘い感じが楽しくて、振りほどくことができない。彼は耳もとにささやくようにして、 「昨日の午後、行ったんです、ぼくも。会えるかもしれないと思って」 「まあ」  と雅子は言おうとしたが、その呟きは声にならなかった。学生が彼女の唇に口を押しつけたからである。若い男の口は南京豆の匂いがかすかにしたが、不快ではなかった。彼は彼女を倒そうとした。  そのとき、戸口でまた長谷川の声があった。 「ねえ、洋ちゃん、あけてよ」  藤田は雅子を抱きしめて身をこわばらせ、片手の人さし指を唇に当てた。長谷川は扉をゆすぶった。 「あけてよ。いることは判ってんだから」  そして二人が黙りつづけていると、 「洋ちゃんはリツ屋だったんだね。リツ屋……」  と呻《うめ》くような声で、雅子にはぜんぜんわけの判らぬことを嘆いてから、とつぜん扉を荒ら荒らしく拳骨で叩き、声を張りあげて、 「おい、あけろよ。あけろ。叩き割るぞ」  藤田は顔を扉に向けて、じっとみつめている。何も言わない。雅子は眼をつむって、体を小さくした。扉が割られ、男がはいってきて、二人ともひどい目に会うのだと思った。  長谷川はどなりつづけたあげく、やがて口調を変えて、 「おい、お嬢さんか奥さんか知らないが、いいかい、洋ちゃんはあたしのものなんだよ。いいか。あたしのもの……」  と低い声で言った。雅子はそれを、眼をつむったまま、ぎゅっと顔をしかめて聞いていた。長谷川が彼女に語りかけたことは、さっきの「リツ屋」という言葉ほどではないにしても、どういう意味なのか見当がつかなかった。もう二、三度、扉をゆすってみてから、男が去った。非常階段の足音は、さっきとはまるで違う、のろのろした足どりである。  彼の足音が聞えなくなると、雅子は眼をあけた。立ちあがって身じまいをすませ、帰るつもりだったのである。だが顔のすぐそばに、真上に、興奮しきっている若い男の顔があった。彼は息をあえがせ、彼女を押し倒そうとする。雅子はその顔を突いて、 「ねえ、厭よ。あたし、厭よ」  と叫び(女の小指が男の鼻孔にはいった)、畳の上を転げたけれども(女の足がうがいコップを、そして男の足がビールびんを蹴り、コップとビールびんは部屋の隅へ転がって行った)、とうとう押えつけられた。こうして押えられると、じつは自分の抵抗は本気ではなかったのではないか、いま激しく逆らったのはじつは楽しさを高めるための戯れだったのではないかという気がした。男が彼女の体を撫でた。彼女は待った。しかし——藤田はどうしても彼女を犯すことができない。いくら努めても、彼は萎えていたのである。  やがて若者は部屋の隅の流しの下へ行って、壁によりかかり、片手できつく顔を覆って、すすり泣きながら、 「駄目なんだ。駄目なんだ」  と呟いた。その泣き声は滑稽だったし、六畳の部屋は、すり切れてふくらんでいる茶いろい畳も、割れたところをセロテープでとめている窓ガラスも、新聞紙で目貼りをしてある天井も、ひどくきたならしいものに見えた。雅子は部屋を出た。  彼女は横町から大通りへ戻り、家のほうへ歩いて行った。ずいぶん歩いてから、ココア・シガレットを忘れたことに思い当ったが、もちろん引返すつもりはない。彼女は歩きながら、あの学生が男色者だということに気づかなかったのは(|最後まで《ヽヽヽヽ》気づかなかったのは)やはりあたしに想像力がないせいかと疑っていた。さらにまた、あの学生はあたしを使って自分が男であることを試そうとしたのか、それとも本当にあたしを愛していたのかしらと怪しんだ。しかし、そのときの雅子の関心事は愛ではなかったのである。 「想像力」  彼女はそのむずかしい言葉をそっと口にした。買物籠を持った二人連れの主婦が、すれ違った若い女の独言に驚いて振り返る。雅子はそのとき、夏の終りの眩しい街にではなく、初夏の宵の仄暗い病室にいた。  夜だった。雅子は看護婦が連れて来た、足首に木の札をつけている赤ん坊に授乳をすませ、背中を軽く叩いて小さなゲップをさせた。そしてそのままじっと、腰を落した坐り方でべッドの上に坐ったまま、子供を抱いている。雅子は、小さな手を握ったり、鼻をつついたりしてみた。窓からはいって来るそよ風は、若葉の匂いや何かの花の匂いがするように思われる。同じ部屋の患者たちは、週刊誌を読んだり、眼をあけたまま何もしないでいたりしていた。一人は、さっきからしきりに煎餅を食べている。雅子はもういちど赤ん坊の鼻をつついた。それは昨日、達吉がすこし低すぎるんじゃないかと心配した鼻である。ただし雅子が、きっとあたしぐらいの高さにはなると請合って、安心させたのだが。そして子供は、いくら顔をつつかれてもきょとんとしているだけだ。今はこんなに小さいけれども、もうすぐ這いまわったり、歩いたりすると考えると、夢のような気がした。  子供は乳を吐かなかった。若い母は、乳首がすこし痛いと思いながら、そのことも自分のしあわせのしるしであるように感じた。彼女は、まだ眼の見えない、名前もついていない小さな娘に、 「ねえ」  と小声で話しかけた。 「ねえ、さっきこういう夢を見たのよ」  夢の話を語り終えて一瞬のち、雅子は思わず顔を赤らめた。夫にも、妹にも、夢の話をすることができないため、聞くのを断られたため、だからこんな小さな子供を話相手に選んだのだと悟ったせいである。雅子はベッドの上に坐ったまま、一人で恥かしがっていた。これではまるで、猫に話をして暮す、一人ぐらしのお婆さんみたい。しかもそれが、他愛もない夢の話だなんて。だが、じきに彼女は考え直した。今はたしかにこんなに小さくてこんなに柔かい、猫のような聞き手だからおかしいけれど、すぐにあたしの言うことが判るようになる。相槌だって打てるようになる。そうなればちっとも変じゃないわけだ、と。  もうこれからは毎日でも、この子を相手に夢の話が自由にできるし、子供もやがておもしろさが判って、あたしの話を本当に楽しんでくれるようになると思うと、この十月《とつき》のあいだの苦労が酬われたような気がした。だが、すぐに彼女はこう思う。この子だってもっと大きくなれば、妹や夫のように、あたしの話を退屈がり、厭がるにちがいない、と。そうなるのは十五、六かしら? もっと早くて十か十一かしら? まさかいくら何でも、七つか八つということはないと思うけれど。しかしそう考えながらも、産婦の表情はいっこう翳らなかったし、むしろ明るさを増してゆく。もしこの子がいつか、あたしの話を退屈がり、嫌うようになるとしても、その前に別の子がまた生れるし、その半ズボンの、それとも長ズボンの、男の子が(彼女は、この次は男の子が生れると信じていた)生意気に母親の夢の話を馬鹿にするようになる前には、また別の子供が生れ、こうして続々と話の聞き手が現れるわけなのだから。そして、もし子供たちがみな育ってしまえば、老眼鏡をはずしてテレビの前に坐り、音をうんと大きくして画面を見るという楽しみのほかに、孫に、曾孫《ひまご》に、夢の話をして聞かせるという喜びがある。……  そのとき隣りのベッドの老婆と視線が会った。病名が判らない病気だという老婆は、 「さっきから、にこにこしている」  と呟いて、それからものうそうに眼をつむった。  雅子は強い西日を片頬に受けながら、まるで涸《か》れた川のように白い道路を歩いてゆく。抱いている赤ん坊が自分の子ではないと気づいたのは、すくなくとも疑いはじめたのは、あの夜、あの年寄りの言葉にあたしが思わずほほえんだ直後だった。それは一年とちょっと前のことにすぎないのに、遠い昔の出来事のようである。雅子は歩きつづけながら、これからあたしはどうなるのだろうと考えてみるが、彼女の想像力はどんな未来も描いてくれない。     4  …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… [#改ページ]    男 ざ か り  下手くそな霊媒みたいな気持でしたよ。新米なもんだから、呼び出そうとして狙った亡霊が出て来なくて、別のが現れたような感じ。  ぼくはへどもどして、眼を白黒させていた……歩道橋の上で。  昔……といっても十年くらい前、惚れぬいていた女がありましてね。大柄で、肌が白くて、眼が大きくて、目つきが色っぽい。ぼくの好みの女だった。たった一ペんだけ寝たことがあるけど、それっきり逢えなくて。  それが去年の秋か暮れ、亡くなったという風のたよりを耳にしたんです。子宮癌か乳癌か、そんな病気だということだった。ええ、もちろん、教えてくれた男もはっきりと知ってるわけじゃない。でも、病名はともかく、死んだことだけは確かだと言っていた。  その報《しら》せを聞いても、別にどうってことはなかったんです。ほう、あの女も死んだか、なんて思った程度だった。  ところが翌日、街を歩いていましてね。たそがれる直前、空が変に明るくなるでしょう。ちょうどそういう時刻だった。歩道橋の階段を昇りかけて、不意に、女のことを思い浮べた。どうしてなんだろう?  普通、和服はいいけど洋装はどうも、とか、その反対とか、大体そうでしょう。ところがその女は、両方とも趣味がよくて、着こなしが上手《うま》くってね。青や紫が好きだった。グレイもよく似合ったな。  いつも、髪をすこし長めにしていた。  二、三年前、新聞小説の挿絵で、原稿がどうしても間に合わないから絵組みでやってくれと言われて、女の髪が風に乱れてるところを、うんと大きく描いたことがありました。ええ、筋とは何の関係もなしに。ピンをすっかり取って、扇風機の前にいたときのことが、記憶に残っていたから。乱れた髪をうるさそうにしながら、髪のあいだからぼくをじっと見ていた。  歩道橋の階段を昇りながら、とつぜんそれを思い出しましてね。前の日、死んだと聞いてもどうってことはなかったし、その日も朝からずっと平気でいたのに、変なもんですね。逢いたいなあとしみじみ思ったんです。  街は大変な雑沓でした。下では自動車がいっぱいつかえていた。もちろん、街じゅうがわーんと鈍く鳴りよどんでいて、ひどく騒々しい。そして歩道橋は——盛り場の真中ですからずいぶん長い歩道橋なんですが——騒音のなかでこころもち嫋《しな》って、震えている。そのかすかな震えを足で感じとりながら、死んだ女のことを思いつづけていました。  すると……ほら、歩道橋というのは幅が狭くて、向うから一人きて、こっちから一人ゆけるだけ。二人が並んで歩ける程度でしょう。向うからやって来る一列のなかの中年の男が、すれちがうとき、もぞもぞと立ち止りかけたんです。ぼくは、ちょっと変だなと思ったけれど、そのままゆき過ぎようとした。すると、 「Sさんじゃありませんか?」  と訊ねるじゃないか。 「はあ」  と答えると、嬉しそうにして、 「やっぱりそうですか。どうもそんな気がしましてね。Iですよ。中学で一級上だったI……」  ぼくはすっかり茫然としていた。そして茫然としてるぼくの前で、Iはにぎやかに、 「いやあ、奇遇ですな」  と何度もくりかえしてました。しかし、こっちにしてみれば奇遇以上だったんです。何しろ、もう十五年以上も前に、結核で死んだと聞いてた相手なんだから。  ぼくは幽霊を見るみたいにして、汚れたレインコートの男を見ていました。かなり長いあいだ、そうしてたような気がする。そんなとき、足を見るって言うでしょう。でも、そんな知恵は——知恵と言うのもおかしいが——出なかった。あれだけびっくりしたんじゃ、無理だよね。  そして中年男のむくむくした顔を見てるうちに、その顔の底から、中学で一級上のIの面影が浮び上って来たんです。たしかにIでした。そういう気配が判ったんですね、 「ね、そうでしょう。Sさん、思い出したでしょう。いやあ、奇遇ですな」  と言って、握手を求める。死んだはずの男の右手は、ぼくの右手よりずっと脂性だった。  その手で固く握りしめたまま、 「お元気ですか? Sさん」  と訊ねて、こっちが何も答えないうちに、 「いや、お盛んなようですな。蔭ながら喜んでましたよ。わたしの親友に日展の花形作家がいるなんて、こんな鼻が高いことはない」  と大げさなことを言う。「日展の花形作家」も針小棒大ですが、「親友」も嘘っ八だ。生きてるか死んでるかも知らない親友なんて、あるもんですか。そしてIの奴、 「どうです? そのへんでちょっと。いや、今日は絶対、このままで別れるわけにはゆきませんな。実はね、御連絡しようと思っていたところなんですよ」  と、手を放さないんだ。どうにも仕方がありません。ぼくたちが立ち止ってるせいで、すっかり交通が渋滞してしまって。通行人は一人ずつ、体をねじるようにして、通り抜けてゆくんです。断ったりしたら、大変な交通麻痺になる。  ええ、その通り。本当は、顔を見るのも厭な男なんです。そういう奴と酒を飲まなくちゃならないなんて。ねえ。どうも、歩道橋というのは嫌いですね。なんとなく虫が好かない。形もきたないし。ああいうみっともないものは撤廃すべきだと思うな。  この男、中学生の時分から嫌いでしたね。感じが悪かった。  御存知かもしれないけど、ぼくは信州生れの信州育ちで、中学も信州なんです。絵が好きでしてね、中学生になると早速、美術部というのにはいりました。すると美術部の一級上に、Iがいたわけです。  絵が下手だったな。すごいもんだった。色感も悪いし、デッサンも狂っていて、どうにも仕様がなかった。それはまあいいんですが、上級生だってことを笠に着て、一年生をいじめる。殊にぼくがひどい目に会いました。やはり生意気だったせいかな? もちろん二年生が大した権力を持てるはずはないが、上級生にうまく取り入っていじめる権利を貰うわけです。教育係になるわけだよね。野蛮な中学でしたし、野蛮な時代でした。戦前、鉄拳制裁というのは、田舎の中学ではたいていあったんじゃないかな? 些細な落度を理由にして、ずいぶん叱られたり、殴られたりしましたよ。それが、あいつの卒業までつづいてね。四年間、ひどい目に会いました。三年、四年のころは、わりあいよかったけれど。  不思議だな、今になってみると。ぼくはそれをじっと我慢して、心のなかで怨むだけにしていた。文句も言わなかったし、美術部の部長をしている絵の先生にも言いつけなかった。もっとも、上級生の制裁に不服を唱えたりしたら、大変なことになる。それにIには、一級上に、年子だったんですね、兄貴がいて、これが実力者だった。二人とも体格がよくて、みょうに口さきのうまい、すれた感じの兄弟でした。県庁の、わりあい下のほうの役人の息子で、そういうこととも何か関係があるのかもしれない。  でも、中学時代はまだよかったんです。東京に出てからがひどい。  ぼくが美校の予科生になったのは戦争の末期ですが、月に一ペんか二へんくらい、Iが下宿へやって来ましてね。官立の高校の入学試験に落ちつづけていて、徴用のがれだとか言って、**会館の給仕をやっていました。それはまあいいんだが、長いあいだ坐りこんで無駄話をする。これが長くてね。そして、部屋のなかをじろじろ物色して、食べ物とか煙草とかをごちそうしろと言うんだ。もののない時代でしたからね、厭だった。気の合った友達にならともかく、こういう男が相手じゃ、身を切るような思いだった。狭い部屋ですから、隠しようもないし。一度なんか、銭湯へ行って、これから林檎《りんご》を食べようと楽しみにして帰ると、Iが上りこんでいましてね。五つあった林檎をぺろりと食べてしまっていた。 「やあ、失敬、失敬」  なんて、横柄に片手をひらひらさせやがって。ぼくとしては、三つは食べて、二つは絵を描くつもりだったのに、うん、食いものの怨みと芸術の怨みだよね。こみいってる。  それに、ぼくがまた要領が悪いんだな。闇米が一升、手にはいったなんて、口をすべらせてしまうんだから。すると、三合だけぜひ貸してくれ、来週、米がはいる確実なあてがあるから、煙草を二十本添えて返す、なんて言う。煙草につられて三合出したんですが、もちろん返してなんかくれるもんか。  そのうちIは兵隊にとられました。でも、途中で体をこわして、陸軍病院ぐらしだったらしい。結核だったんですね、あの時分から。ぼくも勤労動員に駆り出されて、旋盤の熟練工になりかけたころ兵隊にとられましたが、三ヶ月であっさり戦争が終った。  それからしばらく没交渉でした。ところが……卒業制作のころかな? 化粧品会社の宣伝部に勤めたころかもしれない。どう探し当てたものなのか、前とは違う下宿へ、日曜の昼ごろふらりとやって来たんです。相変らず押しが強くてね。中野か荻窪《おぎくぼ》で、バーテンダーをやっているという話だった。酒場というより、飲み屋でしょう。誘われたけど行ったことはないから、知らないんだ。店にかける絵を貸してくれと言うんですが、これは断りました。場末の酒場むきのヌードなんて描いてないし、それに十中八九まで売り飛ばされると思ったから。  断っても、しつこかったな。ここに置いておけば只だが、貸せばすこしでも金になるじゃないか、なんて。絵を勝手に引張り出して、これがいいとかなんとか、選んだりするんです。でも、もちろん承知しなかった。  それ以来、また、ちょくちょく現れるようになりましてね。いや、べつに歓迎なんかしたわけじゃない。でも、遊びに来ないでくれとは、どうも言いにくくて。そうそう、店から持ち出したというジンを一本、二人であけたことがあった。Iにごちそうになったのは、あのとき一ペんだけじゃないかな。そのジンを飲みながら、ぼくに、ヌードのモデルをいっしょに描かせてくれと頼むんです。冗談みたいな本気みたいな、よく判らない口調で。ええ、決ってますよ。絵が狙いじゃない。ストリップのつもりでいるんだ。もちろん、相手にならなかった。つまらないからよせ、なんてたしなめてね。  それから女の話になったんですよ。飲み屋の亭主の眼をかすめて、酔っぱらってる亭主の横で、おかみさんと寝たというような体験談。あれは嘘くさかったな。でも、その次にした話は、本当だと思った。どうも、実感があったもの。  店の近くにある喫茶店の女の子を、前から狙ってたんだそうです。小柄でほっそりした、いい娘で、向うもIが嫌いじゃないらしい。何度も逢びきしたけれど、どうしても陥落しなかった。一度なんかは連れこみホテルまで行って、それでも許さない。厭だとがんばるんだそうです。不思議で不思議で仕方がない。でも、なぜ厭だと言うのか、Iには判らなかった。  その次に、もう一度、誘ってみた。これで駄目ならもう諦めようと思って、映画をおごったり、ギョウザを食べさせたり、たっぷり元手をかけた。それから宿屋へゆく。べッドのなかでIが手を伸《のば》しかけたとき、女の子が小さな声で言ったそうです。 「ねえ、絶対に笑わないって、約束する?」  無毛症だったんだ。  ぼくはそこまで聞いて、思わず、 「かわいそうに」  と呟こうとしたが、そんなこと言う暇なかった。Iが陽気な声で笑って、ジンをあおり、 「いや、笑ったねえ。げらげら笑っちゃった。こんなことだったのかと思うと、おかしくて、おかしくて、笑いが止らない」  ぼくはむっとして、ひどい仕打ちじゃないかと咎《とが》めたんですが、Iに言わせると、笑わないと約束したわけじゃないから、かまわないんだそうだ。三百代言みたい台詞《せりふ》じゃないか。恥かしがってる女の子に対して優しくない、思いやりがない。それを責めてるのに、判らないんだ。  それに、女の子がああ言ったところを見ると、今までの男だって笑ったにちがいない、だからおれが笑うのも当り前だ、なんてみょうな理屈をつけて、大声で笑うんです。こっちは何しろ二十代のはじめでしょう。若いから、腹が立ちましてねえ。こういう非人道的な、冷酷な態度が許されようかなんて、すっかりいきり立った。でも、中学の一級上というせいかしら、それともジンをごちそうになってるせいか、せいぜいおとなしく、 「かわいそうだ、その女の子。自殺するんじゃないですか?」  なんて訊ねた。ええ、本当にそう思ってたな。  それがまた笑われましてね。だからSは子供だ、とか、坊ちゃんだ、とか、Iの奴、泪《なみだ》を流さんばかりにして笑いころげるんです。癪にさわったが、詳しく聞いてみると、どうもこっちが旗色が悪い。喫茶店の娘とのことは半月くらい前の話で、彼女はしごく元気だし、そのあとも一ペん寝てるんですね。なんだかぼくが純情な世間知らずみたいで。まあ、本当にそうだったのかもしれないが。どうも気まりが悪くてね。あわてて別の話に切り替えました。  しかし翌朝になると、また猛然と腹が立って来た。こういう心の鈍感な男、下品な奴と、つきあわなくちゃならぬ義理がどこにあるのか、なんて、二日酔いの頭で考えました。そして考えてみると、全然ないんですよ、そんな義理。これにはびっくりした。どうして今まで気がつかなかったのか、不思議でたまらなかった。そこで下宿のおばさんに彼の人相風態を説明して、ぼくがいようといるまいと、かならず留守と伝えてくれ、部屋にはあげないでほしい、いつ帰るか見当もつかないと言ってくれ、と頼んだんです。  それから四、五回、訪ねて来たらしい。そのたびごとに、あとでおばさんから報告がありました。秋から冬に移る時分の日曜日、ぼくがカンバスの下塗りをしてると、おばさんが部屋にやって来て、いまIが来たけれど居留守を使った、勤めさきを教えてほしいと言われたが知らないと答えた、と言う。そして、話はすんだのに引上げないで、もじもじしてるから、どうしたんだろうと思ったら、 「この寒さにワイシャツと夏ズボンですよ、あの人。よほど困ってるのね。病気なんだって。国に帰りたいが切符が買えないから、Sさんに借金しようと思って来た、なんて言ってましたけど。追いかけて行って、すこし恵んでやったら?」  と、すすめるんです。  ぼくはその言葉に従わなかった。いつまでもぐずぐず、カンバスの下塗りをつづけていました。夕方、Iはまた来たんだそうですよ。もちろん、おばさんはまた居留守を使ってくれた。おかしなもんですね。ぼく個人の怨みのせいだったら、とてもあんな真似はできなかったにちがいない。それが、ぼくの見も知らぬ、中野か荻窪の喫茶店の娘の、しかも彼女はどうやら許しているらしい恥かしい思いの仕返しとして、ああいうことがやれるわけだから。いや、フェミニストだなんて、そんな。とんでもない。からかっちゃいけませんよ。Iの艶福にやきもちをやいてたのかしら? それもすこしはあるかもしれないが、それだけじゃないように思うんだが。まあ、面倒なことはどうでもいいやね。  翌年の秋のはじめ、偶然、上野駅で、中学の同級生で銀行に勤めているAに会いました。こっちは見送りで、向うは帰って来たところだった。久しぶりなのでお茶を飲んだんですが、Aが四方山話《よもやまばなし》のあげく、 「Iが死んだってね」  と言った。驚きましたね。結核で寝ていたのが、この夏、死んだというんです。はじめはとても信じられなかったが、ショックがおさまると、何かこう、ほっとしたことも事実です。八月十五日の気持を、うんと水で割って薄めれば、ああいう感じになるんじゃないかと思う。  そしてAは、 「そう言えばね」  と言って、去年の秋か冬、Iが銀行へ来て、金を貸してくれと頼んだという話をした。 「びっくりしたよ。おれの坐ってる窓口へ来てさ、『A、頼むから金を貸してくれないか』なんて言うんだもの。ワイシャツと夏ズボンという恰好だしさ。銀行泥棒かと思って、どきっとした。裏口で小使に言って、呼び出せばいいのに。どうして窓口へやって来たのかな?」  とAは怪訝《けげん》な顔をしてましたが、これはぼくにはよく判った。ぼくのときでこりて(たぶん翌日の月曜日、Aの銀行へ行ったんじゃないかと思うんだ)、居留守を使われるのがこわかったからですよ。おばさんの気の毒そうな表情で、察しがついたんでしょう。とにかく、Aに貰った金で信州に帰り、そして死んだ——とぼくは信じ切っていたんです。十五年以上、二十年ちかく、そう信じていた。一瞬、幽霊だと思ったのも、当り前でしょう。  歩道橋の真中から、ぼくはすっかり観念して、Iのあとについてゆきました。ついてゆくと言うより、引き立てられたと言うほうが正しいな。Iはぼくの腕を放さなかったから。諦めて、 「そのへんで軽く一杯やりましょうか」  と誘ったんですが、相手は、 「いや、その前に、わたしの心やすくしてる店がありますから、そこでまず……」  なんて言う。二軒もつきあわなくちゃならないのかと、げんなりしました。連れてゆかれたのはガード下の飲み屋で、Iは一人で張り切ってますが、待遇はどうもよくない。勘定がずいぶん溜ってるんですね。おしまいにはIの奴、 「おかみさん、この次にはきっとみんな払いますから、もう一本つけて」  なんて頼んだりする。そのくせ、ぼくが持とうとしても、払わせないんですよ。  Iはもうすっかり、昔と違ってました。ぼくよりかなり丈《せい》が高いはずなのに、大体おなじくらいに見えたし、痩せてたはずなのに、小肥りになっている。チャップリンみたいな口ひげを立てていて、これも昔はなかったものだ(歩道橋の上で判らなかった一番の理由はこれでしょう)。白髪が多いし、口ひげもかなり白い。言葉づかいも、以前の上級生ぶった威張ったものじゃなく、むしろ卑屈なくらいに変ってました。もっともこれは職業上の姿勢かもしれないけれど。そしてぼくに対しては、その職業上の姿勢を崩すわけにゆかない立場だったんです。  名鑑屋という商売、御存知ですか? ほら、芸術院会員の誰それなら一号いくら、というふうに値段が書いてある本。番付みたいに、高い順でずらりと並んでいる。あれを作る商売です。あれがインチキでしてね。絵かきに一口二千円也の協力費を出させて、それを三口出せば号三万円という具合に書く。絵かきは、素人に絵を売るとき、それを持って行って見せて、 「わたしの絵は号三万円なんですが、特にあなただから号一万円で」  なんて勿体《もつたい》をつけるわけですよ。もっとも、これにも限度があるよね。協力費を出さないで、いい相場がついている絵かきだって、すこしはいるでしょう。  ぼくの絵? 号一万五千。一万五千なら誰にでも即座に売る。一つどうです?  画商はね、あれは買い叩くのが商売だもの。名鑑に号三万と出てる絵かきの作品を買う。号三千円はぜったい払いません。いいところ二千円じゃないかな? それも怪しいかもしれない。ぼくの絵が画商に渡るときの値段、見当がつくでしょう。  Iは名鑑屋になっていたんです。名鑑と言ってもちょっと特殊なもので、番付スタイルじゃなく、一人一ページ、顔写真と近作の写真入り、短い経歴がある名鑑。紙も、ちょっと上質のものを使っている。写真にした近作を一枚もらうのが、向うの収入なんですよ。ええ、それを売るわけだ。もっとも、ちょいちょい描きのスケッチ板《ばん》や六号を出すのは厭な人は、展覧会用の大作を写真に出させる。こういうときは、絵をやるのは勘弁してもらって、金を払う。  大体、名鑑なんてじつに馬鹿げているというのは、前まえからぼくの持論でしてね。ずっと以前、人並に金を出してたことはありますが、あんまり馬鹿ばかしいんでやめてしまった。ちょっと喧嘩……喧嘩というほどでもないが……したこともあって。それに、十種類くらいありますからね、つきあいきれない。なあに、おれは挿絵だけでなんとか食えるんだ、という気があって、無理に絵を売ろうとも思わないし。もちろんこうなると、名鑑にはのらなくなった。  つまり、死んだ男の亡霊が現れたら、そのお化けがよりによって、ぼくの嫌いな商売をやっていた——というわけです。ガード下の飲み屋で名刺を出されたとき、また改めてどきんとしました。長いあいだ関西にいて、繊維のほうの業界紙に勤めていたらしい。それが東京の知りあいに、人手が足りないから来てくれと頼まれて、なんて話でした。よくは知らないが、業界紙の記者と名鑑屋というのは、似たような商売じゃないかと思いますよ。  Iはいったん信州に帰ってから、和歌山県の伯父さんを頼って行って、そこで病気をなおしたんですね。死んだのが兄のほうだというのは、ガード下の店を出て、ぼくのゆきつけのバーへ行ってから、ようやく判った。Aが噂を聞き違えたんですよ。ああいうそそっかしい男が銀行に勤めて、大丈夫なのかな? 大丈夫なんでしょうね。支店長になったんだから。こないだ、電話でとっちめてやりました。彼のところへも来たそうですよ、Iの奴。絵を一枚、売りつけられたとか言ってた。  そんなわけでぼくは、また昔みたいにまつわりつかれるのか、うんざりするなあ、と思ってたのに、変なもんですね、あんまり厭じゃないんだ。ときどき訪ねて来るんですがね、昔ほど厭だとは感じない。どうしてなんだろう? もちろんIの名鑑には「協力」させられたし、それがきっかけで、またほうぼうの名鑑に名前を出すことになりそうです。なんだかわけの判らぬ名目で、色紙を一枚せしめられたこともある。  いや、もっとひどい目にも会ったな。うん、あれはひどかった。Iのよくゆくバーにぼくの挿絵の熱烈なファンがいて、なかなかの美人だという触れこみなんですよ。ぜひ御案内したいと言われて、喜んで出かけたら、ぼくと同姓の別の挿絵画家のファンだった。まったくお笑い草だ。それから、小説家の某氏があなたの絵が大好きだ、毎晩行ってる店があるから、御紹介したい、あれだけ褒めてる以上、顔見知りになればきっと新聞小説の挿絵を頼むにちがいない、なんて言う。あやしいな、とは思ったけれど、新聞小説を一つ引受ければ大きいから、出かけました。でも、すくなくともその晩は来ていなかった。結局、どっちのときも、ぼくがIにおごっただけです。もっとも、池袋のほうの時計屋の主人を連れて来たことがあって、その時計屋さん、六号を一枚買った。ええ、Iにはあとで一割わたしておきました。  九万円のせいかな、昔みたいな不快感が、Iとつきあっても、いっこう湧いて来ないんだ。向うが変ってしまったのかもしれませんね。丁寧な言葉で、ぺこぺこされるから、ぼくがすっかり嬉しがってるのかもしれない。  この、厭じゃないってこと、これが近頃どうも気味が悪くてね。薄気味が悪い。ひょっとすると、Iのほうは今でもやはり昔のままのIで、変り果ててしまったのは案外ぼくなのかもしれぬ……そう思うこともあるんですよ。  つまり、こっちが変ったから、ようやく調子が合うようになったんじゃないか? Iのほうは早熟なたちで、少年時代から中年者だったのに、こっちは今ようやくそうなったから、気にしないのじゃないか?  近頃はすっかり肥ってしまって、ワイシャツも服も作り直しでしょう。それに、昔は、どんなことがあっても官展へは出品しないなんて、心のなかで誓っていたのに、とうとう日展画家になってしまったし。だから、こんなことを考えるのかもしれません。今のぼくなら、絶対に笑わないでくれと頼んだ女を、べッドのなかで大声で笑うことだって、できるかもしれない。 [#改ページ]   思想と無思想の間     1  もちろん事情を知ってる人が居合わせて、もじもじしたりそわそわしたりする場合もあるし、その誰かがたまり兼ねて口を出し、話題を変えようと苦心惨憺することもある。だがぼくはいっこう平気でこう言うのだ。 「ああ、黒田|英之輔《えいのすけ》ね。あれはうちの女房の親父ですよ」  黒田英之輔、略して黒英《くろえい》の転々たる変節の生涯を勢いこんで弾劾していた相手は、たいていここでぐっと言葉に詰り、水割りをがぶりと飲んだり、あわてて煙草を探したりする。なかには紅茶の受皿のへりに乗せて置いたレモンの一きれを、いきなりむしゃむしゃ食べだした奴もいて、これにはぼくもすっかり驚いた。あれはたしかにごまかしの手として有効なもので、覚えておいても損はしないかもしれない。  黒田英之輔(本名、英之助)の悪名たかい思想遍歴は、そのまま現代日本思想史として通用するようなものである。彼は明治三十七年、日露開戦の前日、没落しかけている造り酒屋の長男として九州の小さな町に生れたのだが、まず中学三年のときに洗礼を受けた。翌々年、四年修了で旧制高校の文科にはいると間もなく、大阪の大新聞の懸賞小説に一等か二等で当選したのが「トルストイの人道主義を鼓吹」したものだったというから、この時分にはトルストイアンだったわけである。(英之輔という筆名はこの懸賞小説のときが最初だそうだ。)  高等学校では「もっぱら語学と恋愛に熱中した」というのが口癖で、恋愛のほうはどうか知らないがドイツ語と英語はかなりのものだし、フランス語もぼくよりはマシだから、すくなくとも語学については本当かもしれない。しかしただ大人しくしていたわけではなく、三年のとき黒色青年聯盟九州支部の講演会で飛び入りで演説をし、検束されたあげく、一ヶ月の休学処分を受けた。つまりもうアナーキストになっているわけである。舅《しゆうと》の著書には、この演説のせいで一週間ブタバコに入れられ、恋人である美しい娘が差し入れに来たとあるが、これはどうも嘘らしい。『現代人と転向』という上下二巻の共同研究の、『黒田英之輔の場合』という約百枚の論文によれば、彼だけは官立高校の学生なので、同じ夜につかまった印刷工や僧侶や小学校の教員と違って翌朝あっさり釈放されたそうである。大体、舅には話を大げさにする癖があるから、これは『現代人と転向』のほうが正しいのじゃないかと思う。  このころから東京のアナーキスト連中とは交渉があったが、翌年(関東大震災の年である)東京の大学の社会科に入ると、当然、彼らと親しくつきあうようになる。しかしアナーキズムがもう時代おくれの思想になっていることを数ヶ月のうちに感じとったらしく、暑中休暇が終って上京しようとしているとき(その上京は震災のせいで一月《ひとつき》ほど遅れることになるのだが)、彼の行李《こうり》には『いはゆる無政府主義を弔ふ』という、書きあげたばかりの長い論文がおさめられていた。これが発表されたのは翌年の大正十三年で、「狭い範囲でかなりの反響を呼んだ」と例の『現代人と転向』には書いてある。とにかくこうして黒田英之輔はマルクシズム系の若い論客ということになり、威勢のいい文章を書きつづけた。  共産党系の思想団体にはいくつか関係していたが、それなのになぜ一度も入党をすすめられなかったのかは疑問である。「恐らく性格に篤実さが乏しいと見られたためで、本人は心中このこと〔入党を勧誘されなかったこと〕の屈辱に堪えられなかったであろう。後年、彼が当時のマルクシスト仲間をあれほど非難した理由の一つとして、この心の傷をあげることができる」と『黒田英之輔の場合』の筆者は述べているが、あるいはそうなのかもしれない。  こうしているうちに大正十五年、数え年で二十三の年に検挙された。して見ると警察では立派な党員だと思っていたのじゃないかという気もするが、このへんのところはよく判らない。当時の文化組織では合法的な部分と非合法の部分とがいりまじっていたろうから、警察もすこし広目に網を打ったのかもしれぬ。半年ほど臭い飯を食って出て来たが、この一回目のときは非転向であったし、出獄後に書いた『無産階級の進路』(これは黒田英之輔の文章ではじめて一流雑誌に載ったもの)では共産主義の正しさにちっとも疑念をいだいていない。のみならず、まるで自分が党員であるみたいに見せかけようとしている気配もある。  おかしな話だが今でも舅はこの論文がかなり自慢らしく、ぼくと何度目かにいっしょに酒を飲んだとき、 「思えばあの『無産階級の進路』が卒業論文だったな」  と懐旧談に耽ったのを手はじめに、二、三回おなじことを聞かされた。最初は、お前も文筆業者なのに(と言ってもぼくのは推理小説の翻訳なのだが)一流雑誌には書いたことがあるまい、ところが自分は若年にしてすでにああいう代表的な雑誌の寄稿者だったと威張られているみたいで、ほんのちょっぴり不愉快だったが、何度もくりかえされているうちにそういう気持は感じなくなった。たぶんあれは、ぼくはともかく大学を卒業していて学士なのに、自分のほうはそうでないことを引け目に思っているせいでの台詞《せりふ》じゃないだろうか。舅はあれで案外そういう幼稚なところがある男なのだ。  学生生活をつづけることができなくなったのは、以前から左前だった生家が、父親が死んでいよいよ決定的に没落したせいである。こうして彼は本格的に、文章を売る稼業に精を出すことになった。母親のほうは二、三年、骨董《こつとう》を売り払ったりしながら九州で暮していたが、やがて息子を頼って東京に出て来る。しかしこのころ二度目の検挙があって、母親は結局のところ東京へ縁づいている娘、つまり彼の姉のところへ転がりこむという形になった。彼の五つ年上である姉は、九州へ転勤させられて来ていた東京の会社員と結婚したのだが、その会社員は黒田英之輔の大学入学のすこし前に本社へ呼び戻されていたのである。 「母の上京という事件と転向とは密接な関連がある」と『黒田英之輔の場合』は断定しているが、これはすこし力点をかけすぎてる感じだ。一体この本は、国際的なものと土着的なものとの対立に興味を持っている連中の共同研究なので、「母」というイメージを土着的なものの象徴として使いたいのだろうと思う。もちろん老母を義兄にあずけておくのは心苦しかったろうし、惚れあって結婚したばかりの妻のことも気がかりだったろうが、いちばん大事なのは彼が党員でなかったということじゃないかとぼくは推測している。大物の党員ですら転向する(あるいは、しかけている)ころだったのだ。党員でない自分にはなおさらそうする資格がある(おかしな言い方だけれど)と考えたとしても不思議はない。それに、時勢に対する敏感さという、彼が持って生れた一種の才能のことも忘れちゃならないだろう。そのせいで舅はジャーナリストとして成功したし、またオポチュニストとして悪口を言われることになったのだが、褒めるけなすは別としても、そういう才能の持主だということはやはり認めなければならない。だがとにかく、数えで二十七の年に彼が検事に誓ったことは、共産党と関係を絶つということであった。つまり共産主義思想そのものから離れると約束したわけではない。  問題なのはこれからさきの彼の生き方で、転向者によくあるように茶道史の研究をやるとか仏像鑑賞に凝るとかしていれば、裏切り者の典型、変節漢の代表としての黒田英之輔というイメージはこれほど広まらなかったろう。しかし彼は文筆業者である以上、何か書かなければならないし、書くとすれば当然、関心のあることを扱うことになる。そして舅は美的なものにはあまり縁のないほうだから、日本美術や民芸の専門家になるわけにはゆかない。関心があるのは、やはり広い意味での政治であった。  広い意味での政治だなんて曖昧な表現は困ったあげくの形容だが、実際こんなふうにでも言うしかないのである。舅はときどき、殊に昭和十年代の話になると、まだこのことは言うべき時期じゃないなどと、いかにも自分が政治の裏面で活躍したようにほのめかすことがあるけれども、あれはみんな嘘に決ってるとぼくは睨んでいる。女房の親父はむしろ実際政治に適しないたちの人間なので、しかもそれにもかかわらず(あるいはそれゆえに!)大変な政治好きなのだ。そこで彼は、歴史を語っては現下の状況を論じ、風俗について述べてはたちまち政治に及ぶという、景気のいい空論家になったのである。  ついでに言っておけば、大正の末から昭和のはじめにかけての共産党が彼に入党をすすめなかったのは、実はこういう実際政治に向かないところを見抜いていたせいかもしれぬ、という気もする。こんなことを言うと、いかにも舅を擁護するみたいだし、それだけじゃなく当時の党の上層部の眼光を過大評価するみたいでおかしいけれど、舅はときどきそう思いたくなるくらい変なことを口走るのだ。それなのに彼が自分のことを現実主義者だと思っているのは変な話であるが、これも自分のなかにないものへの憧《あこが》れとして説明をつけることはできよう。  一体この現実主義というのは舅の転向以来の基本的な旗じるしだったようである。マルクシズムは十九世紀のものだから二十世紀には時代おくれであり、ヨーロッパのものだから日本には合わないということを陰に陽に主題にして(そんなことを言うなら国家主義だってヨーロッパの十九世紀のものじゃないか)、毎年、毎月、黒田英之輔は論文を書きつづけてきた。こういう単純な話で長いあいだ商売ができたのは、一つには彼が努力家で、自分の論旨に都合のいい話を集めるためせっせと勉強したせいだし、遠慮して誰も言わないことを口に出すというそそっかしい放言癖のおかげもあるし、それにもう一つ文才ということもある。どぎついけれどもそのくせ愛嬌のある文体が何となく読ませるのだ。  もっとも舅がそういう文章を書きはじめたのは満洲事変のころからで、それまでのはむしろ堅苦しい、こちこちの感じのものだった。たぶん彼あたりが軍部の方針を支持した知識人のはしりということになるのじゃないかと思うが、関東軍の若手は黒田英之輔という左翼(そのころはまだ「旧左翼」とは見られていない)に注目して満洲に招いた。こうして若手将校と「左翼」とはロマンチックに意気投合し、やがて彼は『満洲国史』を書くことになるのだが、この「一大著作」(自序のなかにそうある)は第一巻『若い帝国』を出しただけで中絶した。  これにはいろいろ理由があるけれど、いちばん大きいのは彼の思想がまた改まったことだろう。『若い帝国』が出たのは昭和十四年で、この本を書いていたころは東亜協同体理論というのか東亜聯盟理論というのか、そのへんはぼくにはよく判らないが、とにかく右翼は右翼でもわりあい合理主義的なほうであった。それがだんだん天皇崇拝に近づいて気ちがいじみた感じになり、日本人は毎日、切腹の稽古をするべきだと提唱したり、天皇かキリスト教かと『敢へて大和島根の基督教徒に問ふ』たりするようになった。(このころのものは評論集『攘夷の精神』に収められている。)  ただし戦争の末期には彼よりももっと猛烈な天皇崇拝の連中がジャーナリズムに活躍し、「思想の商人、黒英」(などとまで言われたらしい)は彼らの攻撃目標の一つに選ばれ、それに雑誌の数がへったせいもあって沈黙がちになった。終戦直後は洪水のように出た雑誌のいくつかに政治への嫌悪を基調にしたものを書いたが、これはさすがの舅も時代への波長を合わせそこなった時期で何の反響もなく、以後は、もちろん顔が広いからいろいろな新聞雑誌に書かないわけじゃないけれど、それはみんな片々たる雑文で、大向うに喝采されるというようなことは一度もなく、主として子供相手の伝記(たとえば『英雄ナポレオン』)、歴史(たとえば『ギリシャの都市』)、戦記(たとえば『零戦《ゼロセン》の勇者』)で生計を立てていた。まあ大体こんなところが、人の言う「黒田英之輔の復活」の直前までの経歴ということになろう。     2  黒田英之輔にはじめて会ったのは昭和二十九年で、そのころぼくはようやく一本立ちの翻訳者になりかけていた。大学の英文科を出てから三、四年、いや、学生時代もおしまいの一年間は、有名な翻訳者S氏の下訳をやって暮していたのである。下訳を使う翻訳者には阿漕《あこぎ》に搾取する人もいるらしいが、S氏は再版以後はいくら儲けても鐚一文《びたいちもん》も渡さない代り、初版の印税はまるごとくれるというやり方なので、何となく親分肌のような気がして気持がよかったし(再版にならない本もかなりあるのだ)、仕事がとぎれる心配もないし、それにこれ一冊やればいくらになると判るので張りがあった。  下訳や翻訳をすることに満足していたと言えば嘘になるが、それ以外のことをするのがこわいような、後ろめたいような気持はたしかにあった。白状すれば今でもある。そういう気持を分析するのは面倒くさいことだが、まずあげなければならないのはぼくが転向者であることだろう。ただしぼくの転向というのはじつに間の抜けたもので、悲壮なところやドラマチックなところがちっともない、つまり滑稽な話なのだが。あのころぼくはアメリカの三十年代の、つまり不況のころの左翼小説が好きで、そういう手のものの読後感をしゃべる相手として普通の英文科の学生では駄目だから(アメリカ文学なんて文学あつかいされてなかった)、どうしても話相手はカー・ペー(という言葉を使っていたな)の連中になった。そのうちしきりに入党しろとすすめられ、いや、むしろ入党してくれと頼まれ、ぼくはふらふらと、まるで文化団体の会員になるような調子ではいったのである。  その「文化団体」には二、三べん出ただけでやめた——という形になった。文学部の党員の会議に顔を出しても、どうにもみんなの言うことに馴染めなくて弱っているうちに、共産党そのものが二つに分れて争いはじめ、その大学の細胞が分派のほうの急先鋒だというので中央から解散を命ぜられ、こんなふうにしてぼくはとつぜん党員でなくなったのである。共産党との縁はそれっきりであった。細胞はまたすぐ再建されたが、誰も誘いに来なかった。だからぼくの転向は、拷問をされるとか、いつまでも監獄に入れておくとおどかされるとかしての転向じゃないわけで、単なる軽率さ、あるいはつきあいのよさのせいかもしれないが、今でもぼくはあの半年間を生涯の汚点だと思っている。つまり、信じていない思想を信じているみたいな顔をしたという意味で。  告白すれば、ぼくは党籍を失ったことをちっとも悔んでいないし、むしろああいう具合に本来の自分に帰れたことを不幸中のさいわいとして喜んでいるくらいだ。本当に、じつにうまい調子に党内抗争がはじまってくれたものだと思う。悔んでいるのは共産党員でなくなったことじゃなく、あのときついうっかり入党したことのほうである。つまりあの入党こそはぼくの転向なのだ。ぼくはあの「転向」のことを思うたびに、ああ、おれは思想なんてものとはぜんぜん無関係な、軽薄な人間なんだなと思って寂しくなるのだ。  そういう自己評価の結果、推理小説やノンフィクションの翻訳しかやらないのだというふうに言っては、何だか話を立派にしすぎる嫌いがある。ぼくは怠け者で気力がないし、それに教育学や言語学の単位を取れなかったため、教員免状だってないのだから、英語教師にもなれない。せいぜい翻訳でもやるしかなかったという事情が、何よりさきに厳然としてあるのだ。だから、自分の軽薄さに呆れたあげくの翻訳稼業などと言ったのでは、結果から出発して動機(それも美化された動機かもしれない)を探すようなところがどうしても出て来るようだ。しかしぼくがあの入党のことを今でも苦しく思っていて、おれは自分にこういう罰を課してきたし課しているぞ、おれは今後だってぜったい思想的な発言なんかしないぞ、思想的な指導者にはならないぞと考えると、すこしは気持が安まる、安まるような気がすることがある、ということは確かなのである。もちろんこんなふうにして思想と手を切って暮すのは、大変な頽廃《たいはい》なのかもしれないが、ぼくにはどうしようもないし、また、どうしようもなかった。  ただ、これは無理にそうしているわけじゃ決してなく、自然にそうなるのだが、反左翼の考え方ならいっこう差支えないしそういう意見を聞いても平気でいられるのに、右翼的な考え方を聞くとむかむかする。これは共産主義に対する忠誠ないし親愛感の名残りなのか、それとももともとそういうものがぼくの生地なのかは判らないが、とにかくそうなってしまうのである。このことに関連がある極端な例としては、いつか出版社がイギリスのスパイものを訳さないかとすすめたので読んでみると、なかなかおもしろいし売れそうな気がしたけれど、敵側がソビエトなのはかまわないが、主人公であるスパイがアメリカの右翼団体に助けられるのが厭で断ったら、このシリーズが映画のせいもあって馬鹿当りに当るということがあった。  でも、いつもこんな調子で潔癖にしているわけじゃなくて、いつかなんかは金に困っていたので、やむを得ず、まるで鼻をつまむような思いでヒトラーもののノンフィクションを訳したことがある。これはヒトラー讃美の本ではなかったけれど、ああいう人間はぼくはどうも嫌いで、それが出てくるだけで訳すのが厭になるのである。しかし現実というのは困ったもので、そういうぼくが黒田英之輔の女婿になったり、それだけならまだしも舅の弟子格のヒトラー崇拝の若者と知り合ってひどい目に会ったりするのだ。     3  黒田英之輔という名は前から知っていて、漠然と不快に思っていた。けれど、いちばん活躍した時期にはこっちは大人の本なんかめったに読まなかったから、戦後になってから何かと言えば彼の名が引き合いに出され、知識人の風上に置けない奴とけなされる、その記憶が積り積って厭だと思っていたのだろう。直接どうのこうのというような体験はぼくにはなかった。ただぼくの伯父に牧師がいて、これは満洲事変のころ反戦的な説教を二回か三回したせいで教会員から密告されたため、憲兵にしぼられたというので、一部ではちょっと有名な男だが、学生のころぼくが遊びに行って、話が戦争中のことになるとかならず、 「いや、黒英の『敢へて大和島根』には閉口したな」  と苦笑していた。  何しろ前歴があるから、ときどき特高の刑事がやって来て茶飲み話をする。茶飲み話じつは思想調査なので、誘導訊問めいたことをされても柳に風と受け流さなくちゃならないし、まずくすればたちまち引張られるからスリルがあったそうだが、ある日その刑事が『敢へて大和島根の基督教徒に問ふ』が載っている出たばかりの雑誌を持って来た。 「キリストを信じているうちは天皇を信じてない、なんて書いてあるんだよ。困るじゃないか。たしかにこっちは天皇なんか信じなくて、それをはっきり言えばひどい目に会うから苦心してごまかしてる最中なのに、ごまかしだということを詳しく証明してるんだ。密告だね、あれは。そして結びの一句で、『果して諸君、昭和の島原の乱を起すの勇ありや』なんて憎まれ口をたたくんだからね。まるでキリスト教徒が内乱を企ててるみたいに警察じゃ取るじゃないか」  伯父の話によると黒田英之輔のこの論文はさまざまの波紋をキリスト教界に呼び起したのだそうで、伯父は刑事に問い詰められても何とか言い逃れをしたけれど、日本の神学界で三人目か四人目くらいに偉いと思われていたある神学者が、父と子と聖霊の三位一体にもう一つ天皇を加えて四位一体という学説を作り、笑いものになったのは、この『敢へて大和島根』を読んで発奮したせいだという。ぼくはそんないろいろな話を綜合して、むやみに罪つくりではた迷惑で無節操な男、黒英というイメージを作りあげていた。  推理ものの出版社であるB書房に、若くてちょっときれいな女の編集者がはいったことは気がついていたが、それが黒田英之輔の娘だなんて誰も教えてくれなかったし、その黒田まゆみがぼくの係になって、アパートに来て名刺を出しても、この女の子の父が伯父の仇(と言ってもいいくらい伯父は憎んでいた)だなんて夢にも思わなかった。黒田なんて姓はごくありふれたものだから、これは当り前の話である。そしてある日、ぼくたち二人は特別な仲になり、一週間後の逢びきを約束して別れたのだが、当日になるとひどい風邪をひいて、とても出てゆかれない。仕方がないからすっぽかすことにした。本当のことを言うと、ぼくがゆかないので彼女はきっと心配して訪ねて来て、夕食を作ってくれるだろうなんて、たった一度寝ただけなのにすっかりやにさがっていたのである。しかしまゆみは来ない。  すき腹のまま蒲団のなかで、一つ起き出して飯でも炊こうか、米はあるかしらなどと考え、それも億劫《おつくう》なのでうとうとしているうち九時近くになった。そのとき階段を昇って来る足音が聞え、ドアがノックされたので、ぼくはてっきり彼女が来たのだと思い、 「おはいりよ、まゆみちゃん」  なんて大きな声を出した。ドアが細目にあけられた。体を起して、何しろ相手はまゆみだとばかり思っているから、 「さあ、こっちへおいで」  と甘い口調で呼びかけた。ぼくの気持としては「こっち」というのは言うまでもなく蒲団のなかという意味で、事実、蒲団を敷いたらもう机の上に腰かけるほかは足の踏み場もない狭い部屋なのだが、あのとき「こっち」という曖昧な言い方をして「蒲団のなか」という露骨な言葉を使わなかったのは、非常な幸運だったと言わなければならない。ドアをあけて顔をぬっと突き出したのは、五十くらいの男であった。 「塩谷実さんですな」  と彼は言って、ぼくが思わず、 「はあ」  と答えると、こっちはそれしか言わないのに、 「御免」  と張りのある声で断って部屋のなかへずかずかはいって来た。そして、火の気のない部屋だから当然だけれど、くたびれたインバネスのまま(大島のほうももう日の暮れだった)、ぼくの座蒲団に三分の一、蒲団に三分の二ぐらいの割合で坐り、机によりかかるようにしながら、 「文筆業者の悪い癖で名刺を持っていないので」  と呟くように言う。それからゆったりと振り返るようにしながら、ぼくの机の上の新しい原稿用紙に、 「黒田英之輔」  とそばにあった鉛筆で大きく行書で書き(なかなかの達筆である)、さっとぼくに渡した。  おかしな言い方だが、ぼくにはその名前の意味《ヽヽ》がしばらく呑み込めなかった。黒田英之輔という名と黒田まゆみという名を結びつけたのもすこし経ってからだし、ましていま自分の前にいる、鼻の下にひげをたくわえた、疲れたような精悍《せいかん》なような細長い顔の五十くらいの男が、あの知識人の風上にも置けないオポチュニストだなんて、ずっとあとになってから——正確に言えば彼が立ち去ってから気づいたのである。  五十男は部屋のなかをさりげなく見まわし、大きな本つまり英和辞典一冊とスラング・ディクショナリ二冊は机の横にほうり出してあるのでポケット・ブック(今で言えばペーパー・バック)しか並んでない本棚に目をとめてから、 「アガサ・クリスチーというのがいい。あれならわたしの英語でも読める」  と言う。そして、ぼんやりしているぼくに、 「お名前はかねがね娘から。お訳しになったものも一、二冊拝見したが、すらすら頭にはいるいい訳だ」  といたって無表情にお世辞を言ってから、 「パー|リア《ヽヽ》メント・ストリートとあったが、あれはパー|ラ《ヽ》メント・ストリートでしょうな」  と、ぼくがあとで気がついてしまったと思っていた発音の間違いを指摘する。 「はあ」  とぼくがうなずくと、懐をごそごそさせて煙草とマッチを出し、スラング・ディクショナリの上の灰皿をぼくの枕のすぐそばに置いて、 「風邪ですか。いや、おやすみになったほうがいいな」  と半ば命令する口調で言うので、ぼくは横になった。さっきから寒くて仕方がなかったのである。五十男はゆっくりと煙草をくゆらし、煙を口ひげの上に這わせながら、 「今夜は同じ文筆業にたずさわる者として、いわばコツを教えてあげようと思って。わたしは十九の年から筆一本で暮しているから」 「はあ」  とぼくは恭しく答えたので、教授を乞うような形になった。(十九の年というのは例のトルストイ的小説が懸賞に当選した年で、それを満で言ったのは数えで言うよりも若くなり、天才的に聞えるからだと思う。なお、それ以来文筆だけで生計を立てたというのはもちろん嘘、あるいはすくなくともハッタリである。)  相手はつづけた。 「いや、コツと言ってもそう大したことではない。第一に、いいですか、女の編集者に手を出すな」  ぼくは蒲団のなかで顔を赤らめ、一瞬のち、さらにいっそう赤くなった。まず、ぼくとB書房の編集者、黒田まゆみとのことを見抜かれたと感じたため、次にこの黒田英之輔という男はやはり彼女の父親にちがいないと思ったためである。が、ぼくがもじもじしても男は平気で、ぼくなんか聞いたこともないのや、うっすら記憶があるようだがどうもはっきりしない、戦前の小説家、評論家の名をいっぱいあげて、 「みんな駄目になった」  と吐息をつき、 「こういう連中は女の編集者と関係したから。男の編集者に焼餅をやかれて干されてしまったのですな」 「なるほど」  と、間がもてないのでぼくが仕方なくいい加減な相槌を打つと、 「有島武郎なんかも、それがあったとわたしは睨んでいます」 「えっ!」  とぼくは思わず声を出して、 「姦通罪で告訴されるのがこわくて、心中したんじゃないんですか?」 「うん、通説はそうなっている。もちろんそれもありましょうが、干される恐怖、これも甚大なものであったに相違ない。干されるというのは、これは筆一本で生きる者にとって決定的な打撃ですからな」  そして彼は、ぼくの顔のすぐ横にある灰皿に吸殻を捨て、 「第二に、関係した以上やむを得ないから結婚すること。ちゃんと結婚すればもう焼餅はやかれなくてすむし、むしろ同情されて原稿の注文が来る。不思議なことだが、わたしの著述生活三十年余の体験と見聞ではそうなります」 「はあ」  と答えると彼は急にすっくと立ちあがって、 「では、お大事に」  と軽く会釈するようにしながらぼくをみつめ、あわてて体を起そうとするのを、 「いや、そのまま、そのまま」  と制止してから蒲団をまたぐようにして戸口へ行ったが、 「来週の今日、晩飯を食べにいらっしゃい。それまでには直っているだろう」  ぼくが礼を述べたのには何も答えなかったが、いったん出てから、またドアをあけて顔をのぞかせ、 「うちの娘もあんたと結婚できるのを非常に喜んでいるようです」  これで完全にとどめを刺された形になって、ぼくは頭からすっぽり蒲団をかぶり、 「ああ!」  と呻いたのであるが、しかしあれはひょっとすると歓喜の叫びであったかもしれない。ぼくはまゆみと結婚できるということが嬉しくてたまらなかったのである。だが闇のなかでそうして喜んでいるうちに、 「黒田英之輔」  と彼の名をそっと呟いてみて、おや、案外これは|あの《ヽヽ》黒田英之輔じゃないかと思いついたとき、ぼくはくらくらっとするほどの衝撃を受けた。まさかそんなはずはあるまい、ああいう危険な有名人、重要人物、いわば歴史上の人物のような男がこんな変てこりんな形でぼくの生活に闖入《ちんにゆう》して来るはずは絶対あり得ないと必死になって打消しながら、蒲団から頭を出し、あの名剌がわりの原稿用紙をぼくはじっとみつめた。  そんなものを鹿爪らしく見たって何の役にも立つはずはないので、森鴎外の筆蹟とか徳富蘇峰の字ならぼくだって知ってるけれど、黒田英之輔がどんな署名をするかなんてことは知識の範囲内にない。ぼくはそこで原稿用紙を枕もとにふわりと投げ、改めてこの名前の文筆業者がほかにあるかどうかじっくりと考えてみたが、一人も思い当らないし、黒田、黒田と何べんも心のなかで呟いてみても、思い浮ぶのは黒田長政(これは戦国時代の武将)とか黒田清輝(これは明治の洋画家)とか黒田官兵衛(これも戦国武士)とか黒田正吉(これは小学校のときの同級生で大工の息子)とかばかりで、一人として文筆業者は出て来ない。  どうもさっきの男はやはり本物《ヽヽ》らしいとぼくは考え、暗澹《あんたん》たる心境であったが、しかしまゆみといっしょに暮せると思うとその暗黒がじつはあまり暗くなく、むしろ薔薇いろのようにさえ感じられ、あの牧師の伯父が一昨年死んでしまったのは非常によかったなどと考えたのだから変な話である。  ぼくは、まゆみの父が蒲団の上に置き忘れて行ったアメリカ煙草の箱のなかの一本をぬきとって喫ってみたが、風邪のせいかちっともおいしくない。と、そのときドアにノックがあって蕎麦屋の出前持ちが、ラーメンを一つ、うどんを一つ、お代はもういただきましたからということで置いて行った。さっきの客、つまりまゆみの父が注文して払ってくれたのだそうである。ぼくは昼飯も晩飯も抜いているので夢中になって両方の汁まですすり、さすがは黒田英之輔だけあって何という政治力だなどと単純に感心したのだが、しかし考えてみると初対面いらい今日にいたるまで、舅のそういう実際的な能力に敬意をいだいたのは、あのいたって安あがりな病気見舞いと娘を縁づかせるための策略および弁舌だけではないか。あとはもう、ぼくはただ呆れてばかりいるのだ。  いや、まゆみの結婚のためぼくをおどしたのだって、正確に言えばずいぶんみょうなことだった。あの冬の夜、逢びきをすっぽかされた娘がしょんぼり帰って来ると、父親は様子がおかしいので問いただし、早速ぼくのところへ乗り込んで話をつけたというわけで、ここまでは上出来みたいだけれど、帰ってから五十男は姉に、つまりまゆみから見れば伯母に、こっぴどく叱られたのである。  伯母は夫である会社員に先立たれ、ほかに身よりもないせいもあって、まゆみの母が昭和二十二年に死ぬすこし前からいっしょに暮し、いわば主婦の役を勤めていた。ただし居候じゃないというのが自慢で、事実、戦災で焼けなかった家作のうち手放していない何軒かからのあがりのほか、そのすぐそばにある自分の住んでた家も貸し、僅かばかりだけれど食費を出しているのだ。その代りいちばん日当りのいい部屋を占領しているし、床の間にも違い棚にも縁側にもずらりと鳥籠を並べてたくさんの小鳥を飼い、弟にすり餌をこしらえさせたりしながら大威張りで暮していた。何でも神童・黒田英之輔に輪をかけたくらいよく出来る子供だったそうで、文ちゃんが女に生れたのが惜しいとみんなが言ったというし、たしかに今でも記憶力は大変なものである。だから舅は小さい時分から頭が上らなかったらしいし、それに転向以前や戦争末期には経済的に世話になったせいもあり、どうしても言いなりになるしかない。  そんなわけでもともと受太刀なのに、文子伯母の言い分である、ひとり娘のまゆみを嫁にやったら黒田の家のあとつぎはどうなるかということを、舅はそれまでちっとも考えてなかったのだから、勝負はすこぶるはっきりしている。彼はさんざんとっちめられ、すっかりしおれ返ったのだそうである。しかしぼくは、翌日まゆみが来たときに事情を聞かされても、約束の夕食を御馳走になったとき食後すぐこの話になっても、黒田の姓を名のるという件は承知しなかった。三男坊だし(もっとも次男は死んだ)、塩谷という姓が別に気に入ってるわけでもないし、家なんてものは断絶しようが存続しようがどうでもいいと思っているし、それに向うの意向としてはあくまでも戸籍面だけの話で、仕事のときは今まで通り塩谷実という売り込んだ(あまり売り込んでもいないけれど)名でいいという条件であったが、ぼくはそれでもうんと言わなかった。  なぜあんなに渋ったのかと考えてみると、一つにはあの風邪ひきの夜にさんざんおどしをかけられたのの仕返しという、軽い意地わるもあるけれど、やはり黒田英之輔の息子になるみたいで厭だったのだ。伯父の仇と言えば大時代になるが、とにかく黒英からできるだけ遠い距離にいたいという気持である。ぼくは、おれは思想なんてものとは縁がない人間だが、しかし思想に対する尊敬だけは持っているぞ、失ってないぞ、思想の敵(ある特定の思想の敵という意味じゃない。思想一般、あるいは思想そのものへの敵という意味である)の家のあととりなんかにならないぞなんて、心のなかでずいぶん封建的な力み方をしたりした。  舅は伯母を説得した。ぼくに対する見栄のせいもあったし、それに何よりも大変な子煩悩なのである。伯母は折れて、生れる子供のうち一人に黒田の家をつがせるという妥協案を出したが、ぼくはこれにも、それは成長してからの当人の意志によって決めるべきことであると突っぱねた。(そして子供は今もって生れない。)大体これがぼくたちの結婚のいきさつなのだが、あのとき子供に黒田家をつがせることさえ断ったというので、伯母に対してすまないという気持を女房は今もいだいているようである。     4  数年前、アメリカで防空壕を作るのがはやりだと聞くと、舅はどこかで水爆用防空壕の作り方のパンフレットを見つけて来て、ぜひ翻訳して新書版で出せとぼくにすすめた。馬鹿ばかしいから相手にならないでいるうち向うも忘れてしまったらしいが、こういう軽率さあるいは機敏さは舅の性格の特徴で、それを文子伯母はごくあっさりと「英之助の新しもの好き」と呼んでいる。しかしその反面ひどく粘り強いところがあって、たとえば戦後数年目の正月からつい近頃のいわゆる「黒田英之輔の復活」まで、毎日、朝起きて朝刊を読むとかならずある大新聞の投書欄へ、右翼的・反動的・好戦的な投書をしたことなどはその最たるものであろう。これは彼に言わせると「バーナード・ショーのメソッド」なのだそうで(舅は一体に英語を使うのが好きで、時には「ショーの」と言わずに「シェイヴィアン」と気取ることさえある)、ぼくもどこかで読んだことがあるような気がするけれど、ショーは何十年間とか毎日「ザ・タイムズ」へ投書して、いくら大バーナード・ショーの文章だってそうしょっちゅう載せるわけにゆかないから数十回に一ペんの割合でしか採用されないが、全部ちゃんとコピーを取って置き、あとで本を出したのだそうな。ただしショーの場合と違って、舅の投書は二十年近くの間ずっと採用されなかった——去年の二月のただ一通を除いては。  新聞の投書欄の係では舅のことはすっかり有名になっていて、※[#「○にキ」]という(キケンのキである)避けるべき投書者のリストの上位に名前があったし、ここ数年はろくすっぽ読みもしなかったそうである。舅以外の※[#「○にキ」]の連中というのは、ガ行音の仮名のほかに鼻濁音の仮名を制定せよというのや、野球で敬遠のフォア・ボールのときには、四つ投げないで投手が「敬遠!」と叫べというのや、とにかくそういうことを毎日投書して来るものすごい論客ぞろいだ。ところがその日は折りあしく係の者が、一人は有給休暇、二人は病気、一人は出張、もう一人は出社はしたけれど昼酒を飲みはじめたらぐでんぐでんに酔っぱらってしまい、とても仕事はできない状態だ。そこで何の連絡事項もなしによその係の者がその欄を引受けたのだが、悪いことは重なるもので、その日の投書のなかにはろくなものがない。ニッパチという、二月と八月は悪いという法則は新聞社への投書にも当てはまるのだけれど、殊にこの日はひどかった。当然、字だって文章だって抜群にちゃんとしていて、ただ論旨が突飛《とつぴ》なだけの舅の投書が採用されることになった。それが整理にまわると、ちょうど整理のデスクが地方から呼び戻されて出てきたばかりで感覚がすこしずれてるし、それに功名心にはやっているから、舅の投書を最初にすえて思いきり派手な見出しをつけた。「大東亜戦争がなぜ悪い」というのである。  こういう一部始終は、これもぼくと同じようにあの党内抗争のとき党員でなくなった組なのだが、その新聞社の遊軍の記者に知りあいがいて、いつか会ったとき、 「まったく、君の不肖の岳父には困るなあ」  とぼやきながら教えてくれたのである。 「あれ以来うちの投書欄は品が悪くなって」  と彼は嘆いていたが、その傾向はたしかにあって、見出しはどぎつくなったし、それにどうやら※[#「○にキ」]の投書者たちのものをときどきわざと入れるらしい。これは「大東亜戦争がなぜ悪い」のときの活況をもういちど狙おうという作戦である。あの舅の一文が新聞に載ると、賛否両論の投書が殺到して甲論乙駁、おしまいには「黒田発言をめぐる読者の意見」の特集を見開き二ページに組むことにさえなった。  これだけならまだ大したことはなかったろうが、テレビ局がこの論争の人気に目をつけ、昼休みショーとかいう番組に舅を引張り出した。もちろん大喜びで出演を引受け、ぼくの家《うち》に電話をかけてよこして、服装はどうしたものか、黒紋付に羽織袴で白扇を手にしてはどうだろう、それとも若い層の人気ということを考えるとこないだ作った替え上衣がいいかもしれない、いっそ還暦の男がジーパンで登場して世間をあっと言わせるか(ここで呵々《かか》大笑)などと、じつに下らぬことを言っていたけれど、まゆみの意見が通って黒っぽいダブルの背広に決めた。  この大ニュースが電話で伝えられると女房は有頂天だったし、当日は珍しくぼくよりさきに二種類の朝刊を手にして、テレビ・ラジオのページを見ては改めて騒ぎ立て、伯母さん一人で支度は大丈夫かしらなどと呟く。心配なら出かけたらどうだと言ってぼくは仕事部屋にはいったが、まゆみが電話をかけると、万事うまく行ってるから来る必要はないという返事である。もっともぼくの家から舅の家まで二時間近くかかるのだから、支度を手伝うにしてはもう遅すぎた。この家は動物もののノンフィクションを訳して思いがけなくそれが当り、すこしまとまった金を手にしたときに建てたのであるが、東京の郊外とは言っても舅の家と正反対の方角に決めたのは、地価のせいもあるけれど、やはり例の黒田英之輔との距離という意識ないし無意識が働いていたのかもしれない。  大きな声で女房に呼ばれ、仕事部屋から出てテレビの前に坐ったが、そのときはまだ前の番組で歌謡曲をやっている。五分ほどしてそれが終ると今度はコマーシャルで、胃の薬、らっきょうの漬物、家族が全員みんな乗れる小型車、使い捨てにする紙の下着というふうに広告が果てしないくらいつづいて、やがて舅の出るショーになった。もっとも女房の親父が現れたのは終り近くになってからで、まゆみはしきりに時計を見ては、 「おかしいわね。お父さんどうかしたんじゃないかしら」  などと心配し、ぼくは、 「なあに」  とか、 「大丈夫、大丈夫」  とか無責任になだめ、煙草を喫いながら浮かぬ顔で新聞をあちこちと拾い読みしていたのだが、とつぜん彼女がはしゃいだ声で叫んだとき、司会者が舅を紹介した。  ずいぶん老けたなというのが最初の印象だったけれど、そのときぼくは正月の三日まゆみといっしょに年賀に行ったときの様子と比較していたのじゃなく、あの風邪をひいて寝ていた晩の初対面のときとくらべていたようである。髪は白いし鼻の下のチョビひげも白い。眉毛だけ黒々としているのがかえって変な感じだったが、ただしあの十年ほど前の夜の精悍さと疲れとが微妙にいりまじったような気配はなくて、精悍さのほうがぐっと前に押し出されているみたいなのは、彼があのときと違って華やかな存在になっている、なりかけている、せいなのかしらん——というのはぼくの今になっての分析であって、そのときは女房が横で、 「駄目ねえ、伯母さん。あんなネクタイさせるなんて。去年のお誕生日にあげたカルダンの……」  とけたたましくしゃべるのを、 「しっ!」  と叱るのに忙しかった。  司会者が顔じゅうにこにこと笑いながら、 「先生は最近、大東亜戦争がなぜ悪いと開き直って、ええ、開き直ってという言い方には語弊がありますが、多大の反響を呼んだわけですが、あれはたしかに日本人の気持を……」  と問いかけ、そして舅が対照的にいかつい表情で、 「ええ、それはもう……」  と受けたとき、一体うちのテレビは買ったときからその傾向があるのだが、急に画面がちかちかしてまるで墨流しのようになり、しかもこの日はまずいことに舅がそれにつづいて、ちょっと調子を張って、 「あの特攻隊の若者たちが……」  と言ったとたん、音もさっぱり聞えなくなった。  まゆみは気ちがいのようにあわただしく諸々方々のつまみをいじりまわしたが、しかし墨流しは真黒になったり真白になったりまた別の模様の墨流しに戻ったりするだけで、ちゃんとした画面にはいっこうならない。たまに何かの拍子で、 「アジア・アフリカ……」  とか、 「歴史という巨大な怪物は……」  とかいう舅の声、 「なるほど」  とか、 「ええ、ええ」  とかいう司会者の声が聞えることはあっても、それっきりであとはつづかなかった。  まゆみは泪ぐみそうにしながら、ひねったり押したり、がたがたとゆすぶったりするし、しかもぼくが手を出すと、 「よして!」  とこわい声を出す。それはまるでテレビを母性的に保護してるような態度で、ぼくという兇悪な外敵からうちのテレビという病弱な愛児を必死になって守ろうとしているみたいな感じである。  やむを得ずぼくが黙って煙草を喫っていると、彼女はじろりとぼくを見て、 「大体あなたがいけないのよ」  と、とげのある声で言うので、 「どうしたんだ?」  と訊《たず》ねると、 「だからカラー・テレビ買えばよかったのに」  と無茶苦茶なことを言って目を三角にする。ぼくは思わずかっとなって、 「おい!」  とどなりながら畳を激しくどんと拳骨で叩いたのであるが、その瞬間テレビは画面のほうも音のほうも、買ってからはじめてと言っていいくらいのすばらしい状態になったのだ。  司会者は端麗な美貌をちょっとひきつらせて、さわやかな声で質問した。 「先生、どうでしょうか? 天皇陛下万歳と叫んで死ぬ時代がまた来るでしょうか?」  黒田英之輔は細長い顔をいっそう細長くさせて(そのとき顔は大写しになった)、 「うむ」  とうなずき、 「かならず来ますよ。この黒田を信じて下すってよろしい。いや、来させなければならない」  とものものしい口調で言ってから、だしぬけに顔をゆがめて、 「あーっ!」  と悲鳴をあげた。  しかしその声がそんな具合に聞えたのは実はぼくの錯覚であって、まゆみにははじめからちゃんと聞きとれたのだそうだけれども、舅は「天皇陛下万歳」を両手をたかだかとあげて三唱したのである。二唱目のところからはぼくにもそれがはっきりと聞きとれたし、テレビのカメラもまた彼の全身をとらえて、白髪の黒田英之輔は画面いっぱいに、ほとんど跳びはねるようにしながら大声を出していた。そして、じつに印象的と言えばよいか、それとも効果的と言うべきか、時間がもうちっとも残ってなかったのだろうし、それでも万歳三唱の途中ではどうにも仕方がなかったのだろう、三番目の万歳が叫ばれたのを待ち兼ねていたように、司会者の挨拶もぬきで、この昼休みショーは終ったのである。  すばらしい人気であった。舅の家の電話はそれから一週間ばかり「鳴りづめ」だったそうで(もっとも、まゆみもずいぶん何度もかけた)、文子伯母は電話口に出るのが忙しくておちおち小鳥の世話もできないと愚痴をこぼした。電話は大体、「久しぶりにお目にかかれて嬉しかった」という知人からのもの、講演の依頼(自衛隊、学校、その他)、原稿の依頼で、舅は講演も原稿も片っぱしから引受けた。各新聞のコラムは(ちょうどこの日はほかに話題がなかったせいもあるけれど)、たいていこの「老思想家」(と書いたコラムが大部分であった)あるいは「黒英」(と書いた者もいた)のテレビ出演のことを扱い、いろいろとからかった。彼が今までどんなに多くの主義に対し「バンザイ」を言って来たかを、いちいち数えあげている新聞もあったけれど、その博識な筆者すら、キリスト教を落していた。翌週の週刊誌は五誌がトップ記事に仕立て——「TVでバンザイ三唱の哲学者」「マスコミの渦�大東亜戦争がなぜ悪い�」「黒田英之輔のサンゼンたるイズム遍歴」「思想家の万歳三唱とテレビ局の演出」「バンザイ叫んで死ぬ日は近いか?」——そのほか伯母の計算によると七誌がさまざまの形で取り上げたそうである。そしてその次の週にはこれも転向者である旧知の大ジャーナリストとある一流週刊誌で、対談をし、二人はいろいろと調子のいいことを言いあった。それにこれは舅に言わせれば「派生的な事件」とものものしくなるのだけれど、「なぜ悪い」という開き直った言い方が流行語になって、たとえば「亭主の浮気がなぜ悪い」という具合にあらゆるところで使われた。  それから十日ほどして彼の家へ、遠い昔『無産階級の進路』を載せた綜合雑誌の現在の編集長がタクシーで乗りつけ、五月号のための大論文を注文した。舅はそれから毎日——子供むけの『野口英世』も『ケネディ四人兄弟』もやめてその原稿をせっせと書き、こうして一挙掲載三百枚(!)の評論が四月上旬発売の雑誌を飾ることになる。  一月《ひとつき》たらずでこの枚数だから超人的みたいに思われるかもしれないが、仕掛けが判ればそう感心する必要もない。二十年近く例の大新聞へ、毎朝カーボン紙と3Bの鉛筆を使って書き送った投書のコピーがあるのだし、それに他人の著書——レヴィ・ストロース、ゲーテ、トインビー、アンリ・ピレンヌ、パーキンソン、『五輪書』、『近世日本国民史』、ケラーワック、ホイジンガ、平泉澄、『チャタレー夫人』のロレンス、アラビアのロレンス、『アウトサイダー』、ミシェル・レーリス、『世界最終戦論』、ドイッチャー、ケネディ、ランケ、パール判事、『孤独な群衆』、エレンブルグ、ギボン、山本常朝、ヘンリー・ミラー、『古事記』……——や新聞記事からのすこぶる手前勝手な引用、死人に口なしみたいな故人の回想、逸話とスキャンダル、満洲、北京、上海など「曾遊の地」の風景描写、かなり赤裸々な私生活の告白、先輩知人および自分の美談、などをまぜて書いたスクラップ・ブックみたいなものなのである。そういうおかしな構成でありながらいちおう体裁が整っているのは、やはり黒田英之輔の才能がなみなみならぬものであることを示している。なお、雑誌の表紙に大きく白抜きで出たこの三百枚評論の題は、新聞の投書のときの見出しをそっくり借りて、ただしもう一つ景気をつけ、『大東亜戦争がなぜ悪い!』であった。     5  引用した本のリスト(あれではまだ三分の一か四分の一くらいなのだが)でまず判るのは、西洋の本がずいぶん多いということで、しかもレヴィ・ストロースその他ほやほやの新しいものを使っている。そしてぼくとしては、このことは非常に重要な特徴だと思うけれど、『なぜ悪い!』が載った月の論壇時評でも、すこし書き足して追いかけるように出版されたときの書評でも、誰もそんなことに注意しなかった。遠慮して誰も言わないことをよくぞ言ったと「勇気」を褒めたり、「ロマンチック」で「男らしい」がすこし「粗雑」で「欠点はあるけれどもやはり問題の書」であるとか、「一石を投じたことは認めなければならない」とか、まあそんな調子の紋切型の時評、書評ばかりだった。  今の日本では引用と言えばつまり西洋人の台詞を引用することみたいなものだから、誰も気にしないのだろうが、舅の『なぜ悪い!』みたいに日本とか東洋とかいうものをしょっちゅう振りまわしてありがたがり、その日本や東洋を西洋と対立させている論文が、しきりに西洋人の書いた文章を抜いているのはどうもおかしい。叩くため引合いに出すのではなく、この外人も言ってるように自分の論旨は正しい、という話の進め方をするのである。ぼくとしてはこれは舅が世の常識的黒田英之輔論とは逆に、正反対に、実は大変な(異常な)西洋かぶれであるせいじゃないかと疑っている。そしてさらに言うならば、彼が『なぜ悪い!』のような思想(?)を今いだいているのもこのせいではないか? また一般に黒田英之輔ふうの考え方をする人々は、みんな彼と同じくらい猛烈な西洋かぶれのハイカラ好きなのではないか?  彼の長論文はひどくごたごたしていて、そのくせ一気に読ませる力は持ってるという変な文章である。どうにも分析しにくい代物だが、まず目につくのは歴史主義的な考え方(感じ方)で貫かれているということだろう。歴史主義と言っても素朴なものだけれど、史的決定論というのか、つまり、あれはやはりああなるしかなかったのだ、だからあれでいいのだ、という考え方である。もちろん、もしナポレオンがヨーロッパを席捲《せつけん》しなかったらなんて考えるのは遊びにしかならないわけだし、その|もし《ヽヽ》を可能にするための条件を全部ならべあげることは誰にだって絶対できない。だからその点で歴史主義には有無を言わせない力みたいなものがどうしてもある。  それに、ナポレオンの場合には典型的にあらわれるのだが、この過去の肯定、歴史の肯定は、いわば勝てば官軍という立場である。ナポレオンが史上華やかな存在になったということそれ自体が、彼の価値、彼の存在理由の証明になる。だから、彼が皇帝になったことが「自由、平等、博愛」のフランス革命の精神への裏切りであるなんてことは問題にされない。むしろそれは浪曼主義精神の最大の表現——とされてしまう。彼があんなに滅茶苦茶に戦争ばかりしてみんなを苦しませ、大勢の兵隊がばたばた死んだなんてことも取り上げられない。あれは新しいヨーロッパを作るために必要なことだったのだ——という具合になる。つまりこのとき倫理的な観点がなくなってしまうのである。  もちろん大東亜戦争は負けたのだから、勝てば官軍という単純な感じはちょっと目につかなくなっている。それでもつまり同じことで、やはりあの戦争はどうしても起るしかなかったのだ、戦争をした以上どっちかは負けるので、あのときはたまたまこっちが負けただけ、というのが『なぜ悪い!』の議論の骨組なようである。歴史そのものが歴史的事実の光輪《ヘイロー》になってそれを美化している、という、何だか堂々めぐりみたいな仕掛けの考え方なのだが、こうなれば歴史的事実を倫理的に裁くことは最初からできない相談なわけである。たとえばアメリカの奴隷制度だって、なぜ悪い! ということになろう。アメリカ史は、あるいは世界史は、まさしくあのとき南部における農業資本の飛躍的発達を欲していたと言えばそれまでなのだ。しかしそのとき歴史主義は、一人ひとりの奴隷の悲しみをすっかり忘れてしまっている。  だが、無名の被害者である個々の人間の悲しみなんて、そんな些細なことにはこだわらないのがもともと歴史主義というものなのだ。それはもっと大ざっぱな、よく言えば巨視的な見方をする。巨視的な見方にはどうしても冷酷な感じがつきまとうから、これは被害者がまだ大勢生き残っている現代史という分野では力をふるいにくい。反対にたとえば『ペロポンネソス戦争がなぜ悪い!』と力んだりすればかえって滑稽なような、つまり、まあ昔のことだからどうでもいいじゃないかと言われるみたいなところがある。  だから逆に言えば黒英の今度の「成功」は大東亜戦争という事件のなまなましさが薄れかけ、それがいわば狭義の現代史からはずれかけようとしている直前にすばやくその気配をつかんだ、彼の俊敏な才能によるものなのである。(偶然がさいわいしたほうのことは今は触れないことにする。)こんな具合に歴史を先取りする能力が、先取りと言ったってたかが知れているのだけれど彼にあることは、やはり認めなければならない。そういうことにかけては何しろたいへん敏感な男なのである。  よく言われる黒英言行録の一つとして、あの八月一日とか二日とかに街角か駅の片隅で一億玉砕、本土決戦を知人に力説し、同じ月の末にはアメリカ軍の軍服を着こんでジープに乗り、その同じ知人にジープの上から「ヘイ!」と呼びかけたというゴシップがあるけれど、あれはどうも怪しいと思う。やはりフィクション性のゴシップなのじゃないだろうか? あまりよく出来すぎているということもあるが、前半のところがどうも信用できないのだ。ぼくなら、あのくらい敗色濃厚になっていればきっと黒英はせっせと英会話の練習をやっていたんじゃないかと思う。歴史を先取りする能力も大きいが、そのための努力も惜しまないし、またそうしたいという欲求もけたはずれに強い人なのである。  その欲求の強さはどこから生じるかと言えば、やはり歴史に対する恐怖感からだろう。歴史の力というものを何よりも尊敬し、それにひざまずいてしまったから、歴史の方向に背くことがこわくてこわくて仕方がない人間が出来あがった。世間ではそれをオポチュニストとか大勢順応者とか呼ぶが、一種の非常に通俗的な形での歴史主義者と見てもいいのじゃないかと思う。そして彼にこの歴史の力を教えたのはやはりマルクシズムだったにちがいない。若いころに熱心に勉強したものは、さまざまに変質しながらではあるが意識のいちばん深いところまでしみとおってゆくのだ。舅がマルクシズムをすっかり捨てたあとでも、彼の心には、マルクスが先生のヘーゲルから教わった、歴史こそは審判であるという考え方だけは残っていたということになろう。  歴史主義というのは十八世紀の啓蒙思潮や自然法に逆らって生れた十九世紀の産物で、だから歴史についての考え方という面ではマルクス主義もこれにはいる。そう言えば彼の看板みたいに思われてる浪曼主義も西洋の十九世紀のものだし、それから民族主義や国家主義だってそうだ。そしてこういういろいろなイズムはみな手を握りあって、啓蒙思潮と自然法の普遍的・全人類的な考え方に反対したのである。こう並べて来ると黒田英之輔の財産目録は西洋十九世紀づくしになるのだが、世間ではそのことに注目しないようだ。これは彼がいつも日本、日本と言っているからみんなが言葉の表面ばかり見て、彼の方法を見ようとしないためじゃないか。  しかしこのことは、もともと国家主義というものが普仏戦争やナポレオンや植民地競争の時代、つまり十九世紀のもので、ほんのすこし遅れ気味にしてこれも十九世紀の日本に舶来品としてはいって来たということを考えればよく判るだろう。その国家という舶来品に興奮したという意味で、たとえば頭山満《とうやまみつる》などは大変なハイカラだったのである。ついでに言っておけば、いわゆる国士とか豪傑とかの豪放なスタイル、あれも西洋の浪曼主義といくらか関係づけて考えることができよう。  そして、これからさきが大切なのだが、明治以後の日本は国家それ自体が西洋の真似に熱心で、しかも、たとえばイギリスがインドに対しておこなったことをこちらは中国で真似ようという態度であったし、だから西洋十九世紀主義者黒田英之輔は声を大にして居丈高《いたけだか》に、なぜ悪いと開き直ることができるのである。こうして満洲事変もシナ事変もみな肯定されるし、アメリカについてはもっぱら向うが日本を挑発して真珠湾を攻撃させたというふうに、アメリカにみんな責任があることになる。日本が中国を侵略したという倫理的な反省はちっともなくて、あれはやむにやまれぬ民族の力の発現だなんて言うのである。この民族の力という観念には、明らかにダーウィンふうの「適者生存」の反映があろう。つまりここでもまた西洋十九世紀が顔をのぞかせるわけだ。  しかし、こんな具合にまとめれば舅の本の論旨はいちおう恰好がつくのだが、『なぜ悪い!』にはもう一つ奇妙な主題があって、両者が複雑にからみあっているのでわけが判らなくなる。つまり一方にはこういう無倫理な歴史主義・国家主義があるのに、他方には平然として、アジアの平和とか、王道楽土とか、五族協和とか書いてある。ぼくには、これが単なる名目なのかそれとも本当にそう思っているのか、見当もつかないのである。それに舅はまた、大東亜戦争のせいでアジア・アフリカには独立国がふえたじゃないかなんて威張っているけれど、この伝でゆけば日露戦争のせいでソビエトが出来たわけで、乃木大将も東郷平八郎も、広瀬中佐も明石元二郎もみんな赤の協力者ということになってしまうだろう。だが、こんなふうに文句を言ってもはじまらないかもしれない。何しろ舅の本では、英国がインドにしたことを日本がやってはなぜ悪いと尻《けつ》をまくっているちょうど十ページさきで、英国の対インド政策を「一東洋人として」口を極めて罵っているのである。……  ぼくは舅から送られた本を半日がかりで読み終えて大体こんなことを考え、なるほど、黒田英之輔は西洋が好きだからガス・ライターも鉛筆も和製のものは買わないんだな、などと下らないことを思いながらも欠伸《あくび》をした。もう夕方だった。たかが三百数十枚の、しかも読みにくくは決してない本に半日もかかったのは、一つには自分の立場をしっかり持って批判的に読もうというつもりで、考え考えゆっくり読み進んだせいだし、もう一つは舅が特攻隊の若者を讃美して、「彼らが欣然《きんぜん》として死におもむいたと考えてはなぜいけないのか? 私はそう考えて美しさに感動することを好む」と書いている箇所で胸がつまって、本を投げだし、三十分だろうか一時間だろうか、もっと長くかもしれない、畳の上にごろりと寝ころがって天井を見ていたせいである。読み終ってからガス・ライターとか鉛筆とかにからむ冗談を思いついたのも、何でもいいから楽な気持になりたいと思ってのことかもしれぬ。しかし気分は晴れなかった。  ぼくの次兄は特攻隊で出撃して死んだのだ。どういうわけか遺書はなかった。まあこのことはどうにでも解釈はできるわけだが、あれはやはり遺書を書きたくなかったのだと思う。つまり上官の検閲のある遺書では何も本当のことは言えないし、本当のことを書けば家族をいっそう悲しませるだけだから書かないことにした。そうなのじゃないかとぼくは臆測《おくそく》している。兄は子供のころから軍隊や兵隊が嫌いなたちで、大学生になるともう兵隊にとられることばかり気にしていたのに(それを中学生のぼくはしょっちゅうからかっては苦笑させていた。ずいぶん無神経な弟だったわけだ)、学徒出陣で入営すると適性検査の成績がよくて航空兵になった。もちろん大東亜戦争の意義なんてものは、クリスチャンではなかったけれど伯父と親しかったからその影響もあって、これっぽっちも信じていなかった。ああいう兄が自分から進んで特攻隊になるなんてことは絶対ないとぼくは信じている。戦死の公報がはいって特攻隊だったと知ったとき、まずそのことにびっくりしたのを鮮かに覚えているくらいだ。  兄はそんなものに加わりたくなくて、しかし周囲の心理的圧力その他で「志願」するしかなくなって、しぶしぶ死んだのだろう。そして兄のほかにもそういう「志願者」はいっぱいいたにちがいない。ぼくは身近にそういう例があるから、特攻隊が若くて美しいなんて歌謡曲みたいな台詞を聞くといつも胸がむかむかしてくるし、素人の兵隊を特攻隊に仕立てて殺しておきながら自分たちは玄人のくせ特攻隊にならずのんびり生きながらえた職業軍人のことを思うと、腹が立って腹が立って仕方がないのだ。あれじゃまるで看護婦に手術をやらせて自分は麻雀《マージヤン》かなんかやって遊んでる医者、いや、それよりももっともっと、何百倍も何千倍も下劣じゃないか。だからもしどうしても特攻隊員の「若さと美しさ」を褒めたいのなら、職業軍人のああいう臆病さ、卑怯未練、無責任、職業倫理の全面的欠如、口では忠君愛国とか軍人精神とか死を見ること鴻毛《こうもう》のごとしとか言いたい放題のことをほざきながら、じつは出世と恩給のことしか考えていなかった態度、最前線へゆかせられることが罰であった(武人にとってそれは光栄であるべきはずじゃないか)日本軍の堕落と頽廃をもまた、同時に指摘すべきじゃないか。非難し弾劾すべきじゃないか。……  煙草を吸いながら畳の上に寝ころんでいると、まゆみが帰って来た。まず買物の包みをいくつも置いて、買物籠のなかからいま取って来た郵便物を出す。そのなかには、デパートのダイレクト・メイル、印税を銀行へ払い込んだという通知、推理作家協会の会報、新しくできたレストランの広告、引越しの通知、寄付の依頼状、それから誤配された手紙などとまじって、舅の本の出版記念会の案内があった。ぼくにも発起人に名を連ねろという話があったけれど、女婿がしゃしゃり出るのはいかがなものかと言って態よく断ったのである。その往復葉書を黙って女房に見せると、まゆみは、 「ああ、これね」  と言ってから、 「ねえ、あたし、何を着てゆこうかしら?」 「おれも出席しなくちゃいけないだろうな」 「当り前じゃない」 「何を着よう? 背広がない」  まゆみはぼくの皮肉が判って、一しきり笑ってから、 「お父さんはダブルの背広がいいわね」 「うん、そうだな。黒田英之輔は西洋かぶれだから」  女房はまた笑って、 「そうねえ。ジーパンでテレビに出るなんて言うんですもの、相当なものね。半分は本気だったのよ、あれは」  と言った。ぼくも、兄の戦死のことなんかすっかり忘れて屈託のない笑い声を立てた。当然のことだが、そのときぼくは、舅以上の西洋心酔者がもうすぐ現れてぼくをさんざん悩ますことになろうなどとは夢にも思っていなかった。     6  その青年に会ったのは出版記念会のときで、受付で署名をし、会費を払おうとしたとき、ぼくのまん前にいるのが大変な美男であることに気がついたのだ。男がこんなことを言うと滑稽に聞えるのは判っているけれど、ぼくは思わず息を呑んだ。丈《せい》はあんまり高くないが、顔立ちは整っていて、色が白い。耳が茸《きのこ》みたいにぺたりと顔についている感じなのが難だけれども、その代り眼が鋭い。彼は黙ったまま、視線を左右に配るようにしてその眼を光らせ、ぼくをいっときじっとみつめてから二人分の会費を受取った。それから、まゆみが署名した。青年は木綿のタートル・ネックのセーター、色は明るいグレイのやつを着ていて、それがコール天の背広型の上衣の濃い緑とよく合っている。ぼくは、ぼくにぜんぜん関係のない出版社の編集部にはずいぶんおしゃれな美男がいるものだなどと考えていた。一人前の編集者にしてはすこし若すぎるけれど、アルバイトの学生か何かで手伝っていて、今夜は出版記念会の受付に狩り出されたのだろうと推測したのである。  司会者は舅が戦争中、右翼評論家として勇名をはせたころの雑誌の編集者で、今はあるテレビ会社の局長である。乾杯の音頭をとったのは芸術院会員である老詩人で、たしか皇軍の勝利と米英の敗北を歌った詩集が二冊ばかりあるはずだ。それから、挨拶と言うのかスピーチと言うのか、「怪物」として知られているかつての満洲浪人、並木沢五郎が昔ばなしをして、今度の「大成功」を喜び、 「ただ一つ旧友として寂しく思うのは黒田君を慰める好伴侶《こうはんりよ》がいないことであります。黒田君、君はまだ若いんだから一つその方面でも大いに努力せよ」  とやって満場をどっと笑わせ、舅を苦笑させた。次に舅の遠縁のまた遠縁に当るというプロ野球の監督が、野球も戦争もコツは同じだというようなことをしゃべり、そして三番目には、驚いたことに(と言ったのではぼくがいかにも世間知らずみたいになるけれど)ついこないだまでは進歩的文化人の代表みたいに言われていた人が、浪人や監督などとは比較にならないきれいな発音、鮮かな言葉づかいで、「黒田英之輔先生の思想と日本的なもの」について、ごく初期のアナーキズム時代の評論を例にとり非常に学問的な感じで論じた。ぼくがすっかり呆れて、こうしてみると黒英の復活にはやはりちゃんとした地盤があったわけだと嘆息しながら水割りを飲んでいると、スピーチはいちおうこれで打切りなのだろう、そのとき頭上から降りそそぐようにしてステレオの軍艦マーチが鳴り響き、今までじっと話を聞いていた人々はざわざわがやがやと動きだして、酒を飲んだり、料理をつまんだり、久濶を叙したりしはじめる。  まゆみは文子伯母といっしょに隅のほうにいるので、そこへサンドイッチと焼鳥と寿司を運んで行ってから、ぼくは受付に近いテーブルで、一人でぼんやり水割りを飲みつづけた。ぼくの知った顔が一人ぐらい来るかもしれぬなんて考えていたのだが、さすがに一人も来ていない。会場はいよいよ騒がしいし、ステレオは軍艦マーチから「予科練の歌」、「さらばラバウルよ」、「落下傘部隊」、「アッツ島玉砕」とつづき、しかもそこで終りになるのじゃなく、また「守るも攻めるもくろがねの」に戻る。ぼくはすっかり気分がめいってしまって、帰ろうかなどと思いながら、遠くにいる女房の顔や、それからまた別のところにいる舅の顔を見た。女房はさっきと同じ隅のところの椅子に伯母と並んで腰かけたままで、何をそんなにしゃべることがあるのか、二人でひっきりなしにしゃべっているし、胸に大きな薔薇の花を飾った舅は、ほうぼう歩きまわり、いろんな人に、やあ、やあとにぎやかに愛嬌を振りまいている。  そのときすぐそばで、 「まるで軍隊キャバレーですね」  と明らかに軍艦マーチその他を皮肉る声があったので、ひょいと見るとさっきのコール天の服の美青年である。しかしたしかにぼくのほうを見てはいるけれど、何しろ初対面だからまさかぼくに話しかけたのじゃあるまいと思ったが、今まで彼の横にいた禿げ頭の老人が嬉しそうな声を出しながら、日本酒のグラスをたかだかとかかげるようにして誰か顔見知りのほうへ近寄って行ったので、どう見てもぼくが語りかけられたとしか考えようがない。ぼくはその青年に愛想笑いをして、何か言おうと思ったけれど、どういう話をしたらいいか見当がつかないで困っていると、若者はぼくの顔をじっとみつめるようにして、 「こういう低級な芸術は厭ですね」  といかにも厭そうにつぶやいた。そのときのぼくの反応を説明するのはちょっと手間がかかるが、たかが軍歌のことを、もちろん「低級な」という適切な形容詞をつけながらではあるけれど「芸術」あつかいするのはどうも適切な言い方じゃない、というのが一つ。第二は、これはやはりちゃんとした編集者じゃなくてアルバイト学生だろう、自社の本の出版記念会でその本の主張と一致する「芸術」をけなすなんて、という感想。そして第三は彼の眼で、どう言ったらいいだろうか、深くて澄んだ感じでちょっと気味が悪く、それを見ていると、まるで自分がボートに乗って山のなかの湖を一人ぼっちで漕いでいるような気が一瞬したのである。  ぼくは話題に困ったあげく、 「どういう音楽が好きです?」  と訊ねてみた。すると彼は、ぬけぬけとした感じで、そして鼻にかかった声で、 「チャイコフスキー、ラフマニノフ……」  といたって甘い好みを言う。 「なるほどねえ」  などと当りさわりのない返事をしていると、そばをウェイターが通りかかったので銀いろのお盆の上から水割りを取り、空になったグラスをもそこへのせ、彼にも新しい水割りを取るようすすめると、若者は、 「お酒はあまり……」  と言いながらそれでも新しいのを手にしたのだが、そのとき受付から彼を呼びに来たので、 「飲んで下さい。口をつけてませんから」  とぼくに言い置いて、緑のセーターの男は引上げて行った。  しばらくするとまたスピーチがはじまって、今度は明らかにさっきよりは格の落ちる、しかしそれでも偉い人たちが話をする。まず時代小説の作家、次が某大学の教授であるインド哲学者、その次が自衛隊の陸将補で、この陸将補は背広の着こなしは話をした人々のなかで一番よかったけれど(ただし時代小説の作家は黒紋付羽織袴)、話はひどく下手でしかも長かった。  みんなが退屈してざわざわ私語をはじめたため、陸将補はあわてて駄洒落を一つ言い、聴衆は仕方がないのでお義理に笑いを浮べた。そのときすぐ隣りで、 「最低だ」  とつぶやく声があった。振り向くとさっきの若者が来ていて、ぼくにだけ聞えるように低く、今の駄洒落の批評をしたということが判る。ぼくは黙ってうなずいた。すると彼は、 「二佐どまりだと言われてたんですよ。それが陸将補まで行った」  と事もなげに言うので、ぼくはまるで国家の機密でも耳にしたみたいに驚愕した。 「詳しいんですね」  と褒めると、 「自衛隊の内部のことはすこし調べましたから」  とさらりとした口調で受ける。ぼくはここでまた、軍歌が嫌いで自衛隊に関心があるなんて、これはひょっとすると反代々木の全学連のなかの、そんなものがあるかどうかはぜんぜん知らないけれどスパイ部門に属している学生で、ついこないだまでは自衛隊に潜入し、今は反動的出版社に潜入しているのかもしれないなどと、娯楽読物の翻訳者らしい奔放な空想に耽り、しかし(あるいは、それゆえ)この謎の男に対しすばやく警戒心を燃やした。  おそらくそういう警戒の気配を感じ取ったのだろう、青年はポケットから名刺を出して、 「先生に紹介していただく約束だったのですが……」  と言い、ぼくがそれを受取ってから——「青山|晃《あきら》」とあった——もじもじして、 「ぼくは……」  と言いかけると、青山はちょっと微笑して、 「判ってます、塩谷さん。文筆業者は名刺を持って歩かないって、先生から教わってますから」  つまり舅はあの十数年前の冬の夜と同じように、今でも必要なときは原稿用紙やメモ用紙に名前を大書して間に合わせているのであろう。ただしぼくと違って舅は家には名刺が置いてあって、一度だけぼくも書いてもらったことがあるが、それに万年筆で書きこんで紹介状がわりに使うのだけれども。ぼくは、 「ほう、なるほど」  とうなずいてから改めて名刺を見たが、それには名前と住所(それはぼくの家にわりあい近かった)があるだけでどこの学生なのか書いてない。 「青山君はどこか学校へ……?」  とつい好奇心に駆られて訊ねると、彼はほんの一瞬たじろいでからしかしすぐに、 「デザイン学校に籍があります……」  本当は「……ありますけど」と答えたのかもしれないが、何しろこちらは編集部づとめの(あるいは編集部に潜入の)アルバイト学生だと思いこんでいるから、 「これからはイラストが大事でしょうね」  なんて、とんちんかんなことを言い、 「デザイン学校でもやはり……」  陸将補のスピーチが終り、みんなほっとして拍手した。 「……全学連とかストライキとか、それから理事をカンヅメにするとか……」  オリンピックのとき日の丸をあげそこなったかした男と結婚したテレビ・タレントが舅に花束を贈り、みんなが拍手した。ぼくもぱちぱちと拍手を一つ二つして、 「……そういうこと、あるんですか?」  と、さらにいっそうおかしなことを訊ねた。司会者が、まだ酒も食べものもあるし時間もあるからどうぞごゆっくりと言い、また軍艦マーチがはじまり、かなりの人がぞろぞろ帰ってゆく。若者は、 「いや、ありません。あんなの、学校というものじゃない。デザインそのものが芸術じゃないし」  とにべもない口調で断定した。大体この返事の前半と後半は話が飛躍しすぎていて非論理的であるけれど、しかし今度は「芸術」という言葉も気にならなかったし、飛躍そのものが何か青年の純粋さを示してるみたいでぼくは嬉しくなった。鼻も口も形がよくて肌は白いし、すこし大きすぎて平べったい耳を除けばじつに立派な美青年、いや、むしろ美少年に近いため、純粋さというような概念はこちらの意識にすこぶる浮んで来やすいのである。  そのとき、 「やあ、やあ」  と上機嫌の舅が、まばらになった人々をそれでもかきわけるようにしながら近寄って来て、 「どうです、うちに出入りする若い者にも優秀なのがいるだろう」  とぼくに言った。ぼくは「出入りする」というのを編集者という意味に取って、 「たしかに、うちなんかにはこういう美男は来ませんね」  と答えた。普通の男は自分のことを面と向って「美男」なんて言われると照れるものだが、青山はいっこう平気で、ええ、ぼくはおっしゃるとおり美男ですというような顔をして聞いている。舅はつづけて、 「なかなか知的好奇心の強い青年でね。だからディテクティヴ・ストーリーのトランスレイターがわたしの娘のつれあいと聞くと、ぜひ紹介してほしいなんて言い出すんですよ。珍しいな。これからはわれわれの陣営もこうでなくちゃいけない」  この「われわれの陣営」という言葉でぼくはとつぜん、まるで暗い部屋のなかに日の光がなだれこんだみたいに、このおしゃれな美貌の若者は右翼だったのか、なるほどそれで自衛隊の内部事情なんかみょうに詳しいわけだ、それにつけてもぼくは何か変なことを言わなかったかしらと心配したのだが、青山はこのとき仰天している(そしてその仰天ぶりを必死になってかくそうとしている)ぼくに、非常に魅力のある微笑を浮べてちょっとお辞儀をし、 「いろいろお話を聞かせて下さい」  と言った。そしてぼくはこのときもついうっかり、つきあいのよさを発揮して、 「馬鹿っ話しかしませんよ、ぼくは。それでよかったら、どうぞ遊びにいらっしゃい。散歩のついでにでも」  なんて言ってしまったのである。  舅はいかにも嬉しそうにして、 「青山君はテレビのせいでわたしに関心を持ったのじゃないんでしてね。ハイブラウですよ、この人は」  とぼくに語りかけ、それから左右の人々にほほえみながら、のんびりと歩いて行った。そして伯母とまゆみのあいだに腰をかけると、誰かが持って来た焼鳥を食べはじめる。胸の大輪の薔薇はぐらりと横のほうに垂れて今にも落ちそうになっていた。女房はパーティだというので気取って、笑うときに手を口に当てがったりして上品ぶっている。そのときぼくのところへ並木沢五郎の秘書だという男が来て自己紹介をした。青山晃はそれを汐にしてぼくから離れた。秘書は、これからどことかで二次会をするからよろしかったらどうぞという、「先生」からの伝言を伝えたけれど、ぼくは仕事が忙しいからと嘘をついて断った。     7  それからしばらくは、青山晃のことをすっかり忘れていた。頼まれてほったらかしていた軽ハードボイルドを出版記念会の翌日の朝にせっつかれ、いざ取りかかってみると案外むずかしくて、スラング・ディクショナリを何種類もばたんばたんと引きづめに引いたり、流行歌の歌詞を調べたり、こういう女優はいるかなんて映画雑誌の編集部に問合わせたり、しかもそれがどうも女優の名前じゃないらしかったり、寝食の半分くらいは忘れて横のものを縦にするのに一週間も没頭していたのだから無理もない話なのだ。  こうして軽ハードボイルドが一冊あがってほっとしたが、すぐに推理小説雑誌のため本格ものをやらなくちゃならない。雑誌の翻訳は原稿料が安くて、雑誌の定価はぐんぐん上ってくのに原稿料は何年間も据え置きで、つまり単行本よりずっと割安の労働だから厭なのだが、義理があるからそうも言ってられなくて三度に一度は引受けなくちゃならない。そんなわけで引受けたのだが、四百枚をあげてすぐにつづけてまた仕事というのも気が進まない。ああ、あのときの電話で思い切って断ればよかったなんて後悔しながら、横になってうとうと昼寝をしていた。と、そのとき、買物に出ていた女房が、 「ただいまあ」  と帰って来て下から大きな声で叫んだのである。 「お客様よ!」  あわてて起きあがり階段を降りると、玄関には先夜の美青年がにこにこ笑いながら立っていて、ただし今日は上衣なしの白いスポーツシャツである。ぼくが寝起きでぼんやりしていて何も言わないうちに、まゆみが、 「さあ、おはいりなさいよ」  なんてすすめるし、ぼくとしても玄関さきで帰す気はないので、書斎兼応接間へ案内することになる。階段を昇りながら、そしてぼくの部屋に坐ってから聞いたところでは、こないだのパーティで紹介されなかったけれど、彼がぼくとしゃべっているところは見かけたし、それに青山のほうでも女房が舅とどことなく顔立ちが似ているので(これを言われることはぼくとしてあまり嬉しくない)、見当がついていたのだそうだ。二人は駅で会って、お互いにぱっと判ってお辞儀をしたのだそうである。  サイダーを飲んだり夏蜜柑を食べたりしてから、青山は、 「本をお借りしに来たんですよ」 「ほう、ミステリー?」  とぼくはけげんな声を出したが、もちろんそうじゃなくて、ぼくがずいぶん前に訳したノンフィクション『ヒトラーと第三帝国』であった。あの本はヒトラー嫌いのぼくが眼をつぶって訳したものなので、なるべくなら貸したくないし、それに自分の訳書を一まとめにしてあるところからもはずしてあるので、 「さあ、あったかな?」  と気の進まない返事をし、 「誰かが持って行ったんじゃないかしらん」  なんてつぶやいたが、廊下に近いところで夏蜜柑を食べていた女房が、 「『ヒトラーと第三帝国』……青い表紙でしょ。あったわよ、どこかで見かけた」  と言い出したので、探さぬわけにはゆかなくなる。  お客の相手はまゆみにまかせて、一わたりあちこちと本棚をのぞいて見たが、どうしても見つからない。そう報告して坐りこむと、今度は女房が、 「やっぱりあたしが出なくちゃ」  などと威張って、まず書斎の本棚を調べ、それから下へ降りて行った。ぼくは煙草をふかしながら、 「ヒトラーね、うん」  とつぶやいた。そして、舅の家に出入りするのだから右翼がかっているのだろうが、やっぱり日本の右翼なら日本の右翼らしく西郷隆盛とか楠木正成なんかに関心があるほうがサマになるような気がするとか、この感想はいつかの右翼は西洋かぶれであるという説と矛盾するぞとか、しかしとにかく、知識を世界に求めることはいいことだとか、そんなことを考えていると、青山は、 「地理的な点から見ておもしろいですね、ヒトラーは」 「地理? 例のゲオポリティーク……地政学?」  しかし、青山は地政学について何も知らなかった。彼はぼくがうろ覚えの知識で、今は影も形もなくなったこの学問(?)の紹介をするのを聞き、ようやく納得してから言ったのである。 「それとは違うようですね。生れた土地のことなんです。ぼくと同じなんで」 「えっ!」  とぼくは奇声を発したが、もちろん青山はブラナウ生れではなかった。自分が北海道生れで本州生れじゃないのが、ヒトラーがオーストリー生れでドイツ生れじゃないのに似ていると彼は言いたかったのである。そして彼はつづけて、ナポレオンだってフランス領で生れたんじゃないし、北一輝だって本州と言えば本州だけれどしかしちょっと離れて佐渡だしと、みょうなところに親近感を見つけていた。ぼくは判ったような判らぬような気持で、 「なるほど。文明論的な問題だね」  とうなずくと、相手は、 「そうです。中学生のとき学校の本でヒトラー伝を読んでから、おもしろいなと思ったんですよ」  ぼくはまたびっくりしたが、問い返してみると青山が教わった中学校の図書室に沢田謙著『ヒットラー伝』という戦前の児童図書があって、なかなか人気を集めていたのだそうである。殊にヒトラーの父親アロイスが十三歳で故郷を出奔するくだりの、   夢のやうな望みを抱《いだ》いて、都|維納《ウインナ》へ!  という一行がみんなの気に入ったと言う。ぼくは、つまり少年小説みたいにして読んでいたわけかと呆れたり、古今東西の英雄豪傑を手がけている舅もまだヒトラーだけはやってないようだから、これは一つすすめたほうがいいかもしれぬと思いついたり、いや、そういう反動的な金もうけはよろしくないとすぐに反省したりした。そして、 「青山君はそのほかはヒトラーの本を?」  と念のため訊ねてみると、 「あれ一冊しか読んでないんで」  と恥かしそうにして頭をかいた。ぼくは、なんだ、この程度なら大したヒトラー崇拝じゃないな、とすっかり安心しながら、 「おーい、見つかったか?」  とどなった。その声に、女房は何か手にして昇って来て、 「変ねえ。たしかあったはずなのに。でも、ない、ないと思ってた学校のころのアルバムが出て来た。ほら、これがあたし」  などと青山に見せる。今度はぼくが押入れのなかをのぞくと、前から探していた切抜帳三冊や『ブラック・マスク』一年分という収穫はあったけれども、肝心の『ヒトラーと第三帝国』はやはりどうしてもない。  そのうちにぼくはくたびれて、畳の上に出して積み上げた埃っぽい本、雑誌、新聞、ノートなどを青山に手伝わせていい加減にまた押入れにしまい、ビールを持って来いと女房に言いつけた。そして、そらまめでビールを飲んだり、ビールが足りなくなって酒屋に持って来させたりしているうちに、まゆみが、 「ねえ、今夜はビフテキだから食べていらっしゃい」  と青山に言う。ぼくは、やはりこれだけの美男に対しては、女性はどうしても親切になるものらしいと考えた。こうして三人は夕食を食べ、それがすむとまゆみの発案でトランプをして、十時ごろ青山は引上げたのだが、結局その日は一枚も翻訳しなかったのである。  夕食のときから、いや、すでにビールのときから、『ヒトラーと第三帝国』のことはもう話題にならなかったので、諦めたのだろうとぼくは勝手に思い込んでいた。ところが翌日の午後、すこし調子の出かかったところに青山が来て、今日は自分があの本を探そうと思う、もちろんお仕事の邪魔はしない、ほかの者が見れば案外あっさり見つかるかもしれないと言った。ぼくはなるほどそれも理屈に合っていると思ったし、熱意にも打たれたので、本棚を調べさせることにした。  しかし眼の前で本を何冊も棚からどけたり、積み重ねたり、埃を払ったり、小ばなし集かなんかを拾い読みしてくすくす笑ったりされればどうしても気が散るし、やはりお客だと思うから女房がお茶だのコーヒーだのを持って来れば、そのたびに一休みすることになる。それに青山のほうもときどき、遠慮がちにではあるけれども、この本はどういう本かなんてことを質問する。本格ものは死体が発見されたあたりでばったりと停頓して、事態ははかばかしく進展しなかった。  ぼくは頬杖をついてぼんやりしながら、皮肉のつもりもすこしあったかもしれない、 「しかし生れた土地が似てるというだけで大変な情熱だね」  と言った。すると青山はじつにあっさりと、 「それにもう一つありますから。芸大の美術学部を二へん落ちたんです。油絵……」 「なるほど……」  とぼくは思わず暗い声で、 「……それでデザイン学校か」  とこれはほとんど心のなかでつぶやき、『ヒトラーと第三帝国』を訳したときのぼんやりした記憶にすがりながら、 「ヒトラーも二へん、ねえ。憤慨して美術学校へ文句つけたりして。でも、そういう人は今までいっぱいいるんじゃないかい? そういうコーインシデンス……偶然の一致をあまり大事にするのは感心しないな」  などとお説教じみた口をきいた。 「そうでしょうね。でも、こないだふっとそのことに思い当ったら、何となくヒトラーの伝記を読みたくなった」  と青山はこだわりのない口調で説明し、 「黒田先生のところにヒトラー伝が一冊もないなんて、おかしいですね。借り出してゆく人が多いのかな?」 「おかしいね、それは。ひげの具合だって、すこしは似てるじゃないか」  とぼくは相槌を打って笑わせてから、 「それでどうするの? デザイン学校には行ってないのかい?」 「ええ、あんなのインチキ学校だってことは一月《ひとつき》で判っちゃった。これからどうしようか迷ってるんです。それにはまず本を読もうと思って。もう一ぺん研究所に通ってデッサンをやろうかと思うんだけど」  そう言ってまた彼は女房のいわゆる「青い表紙」の本を探しつづけ、ぼくもおしゃべりをつつしんでテクストを横目で見ながら原稿用紙に向ったのだが、翻訳は一行も進まない。そのときのぼくには犯人や名探偵(はまだ出てこない)のことよりも、眼の前にいる一人の美貌の青年がいま生涯の運命の岐路に立っているということのほうが、ずっと気がかりだったのである。ぼくはこう考えていた。幸いこの若者は、服装その他から推して、美術学校を落ちたときのヒトラーほど経済的に困っていないらしいが、それでも二度の不合格を屈辱として感じ、その屈辱を栄光に転じる手段を必死になって求めている。いや、彼はすでにその手段の端緒をつかまえているのかもしれない。つまり、ヒトラーも自分と同じように美術学校を二へん落ちたという|暗 合《コーインシデンス》の形で。もちろんこの若者はもともと中学生のころ、戦前のヒトラー伝を読んで熱中したりして右翼的素質があるし、舅のところへ話を聞きにゆくあたりそういう傾向がはっきりあるようだ。しかし彼はまず、今度こそはと思っていた二度目の受験の失敗で衝撃を受け、そのあとで黒田英之輔の論文に感銘を受けたのである。そして、不合格のあとでようやくヒトラー伝の一節を思い出したのである。問題点はやはり入試の失敗なのだ。  ぼくは、芸大の油絵の試験をしくじったって、なぜデザイン学校なんかにはいったのだろうと考えた。なぜデザイン学校?「芸術」じゃないってことは判りきっているのに。入学試験に二度しくじってこうして東京にいることができ、とにかくこんなふうに暮していられるのなら、そしてデザイン学校の入学金や月謝を払えるのなら、その金で研究所に通って絵を描けばいいじゃないか。私立の美術学校の入学金は高くて無理かもしれないが、研究所なら月謝さえ払えば(よくは知らないけれど)それでいいはずだ。それなのにデザイン学校なんかにはいるのは……とにかく学校というものにはいって一応の恰好がつけたいからだし、一応の恰好がつけたいのは芸術《ヽヽ》にではなく社会《ヽヽ》にこだわっているからだろう。つまりこの場合、学校《ヽヽ》は社会《ヽヽ》の関門として、あるいは社会《ヽヽ》それ自体として意識されているわけだ。  と、そう考えたとき(ぼくはそのとき頬杖をついて、ハードカバーとペイパーバックが半々ぐらいの本棚を見ていた。鼻の頭がちょっとかゆくて、どっちの手の指でかこうかと迷っていた)、ぼくはとつぜんヒトラーの心理が判ったような気がした。あの男は、何のことはない、美術学校を二へんすべったことを大げさにも自分が社会《ヽヽ》から拒否されたと思い込んで、その社会に復讐《ふくしゆう》しよう、社会を破壊しようとしたのじゃないか。とんでもない思い上りだ。たかが入学試験じゃないか。たかが受験地獄——つまり本物の地獄とはぜんぜん違うじゃないか。  そしてヒトラーの芸術好きというのはもともと社会《ヽヽ》性の非常に強いもの、つまりスノビズムで、彼は芸術よりもむしろ芸術愛好者たちの属している上流階級や知識階級に憧れていたのではないだろうか? 再度にわたる美術学校の入試失敗という心の傷を、ヒトラーがああいう復讐でいやそうとした底には、じつは彼が本質的には芸術家ではなくスノッブであるという事情が秘められているような気がする。  それならこの青山晃はどうだろうか? スノッブなのか芸術家なのかぼくには判らなかった。しかしぼくは二言目には芸術、芸術と言いながら、いっこう自分では絵を描こうとしない態度(たとえば研究所へもゆかない)に、かなりの疑惑をいだいたし、彼が社会《ヽヽ》への復讐を夢みていることはたとえば舅への接近などで感じとられると思った。それに何よりも危険なことは、彼が出生地とか経歴とかを手がかりにして自分をヒトラーになぞらえようとしていることである。そういう自己陶酔、自己暗示、あるいは自分を劇の主人公として見立てるような傾向は非常に病的な、つまりヒトラー的なものじゃないだろうか? 「ありませんね」  と青山が言った。そしてぼくは、 「よし、翻訳はやめて探すことにしよう。徹底的に探そう」  と言いながら立ちあがった。どうやらぼくはこの美男に好意をいだいていたらしいし、むかし受験勉強でさんざん苦労した手前もあってずいぶん同情していたようだ。つまりぼくは彼に(いかにも右翼ぎらいの人間らしいことだが)ヒトラーの真似をさせたくなかったのである。こうなったらもうあの本も貸してやるしかない、あれなら日独伊三国同盟のころの子供むきの伝記と違ってずっと批判的・暴露的に書いてあるから、あれを読めばヒトラー嫌いになる見込みはじゅうぶんある、たぶんヒトラー嫌いになってくれるのじゃないかと、ぼくはそのとき咄嗟《とつさ》に考えたのだ。  しかし、押入れをもういちど徹底的に探し、懐中電燈を持って物置にも行って探したけれど『ヒトラーと第三帝国』はなかった。その晩、青山はうちに泊り、翌朝起きるとすぐまた二人は本探しをはじめて、とうとう彼はぼくの熱心さに気味が悪くなったらしく、 「いいですよ、塩谷さん。もう諦めます。お仕事の邪魔しちゃ悪い」  と言ったけれど、それでもぼくは探しつづけ、ついにその午後おそく、「青い表紙」の本は見つかった。何のことはない、辞書のかげになって本棚の後ろにかくれ、厚く埃をかぶっていたのである。ぼくと青山もそれから女房も、最初にここをのぞいたとき、ああ埃がずいぶんあるな、なんて思っただけでその埃をどけようとしなかったのが悪いのだ。  本が見つかると、ぼくと青山とは歓声をあげて畳に寝ころんだので、びっくりしてまゆみが二階へ昇って来た。それからいちおう部屋のなかを片づけて、ビールで祝杯をあげると、今の歓声や祝杯のせいで青年は何か誤解したのだろう、 「塩谷さんはやはりヒトラーが好きなんですね」  と言った。そしてぼくは本が見つかった嬉しさと疲れとビールのせいで、昨日、頬杖をつきながら思案に耽《ふけ》ったときの深刻さとは正反対に、 「ほう、そう見えるかい?」  なんていい加減なことを言ったのである。すると青山は気を許したのだろうか、 「ぼくはヒトラーが別に好きなわけじゃないんですが、でも、進歩的文化人というのかな、ああいう連中がヒトラーの悪口を言うのを読むでしょう。そうするととっても腹が立つんだ。あの連中が、ユダヤ人を一人も殺したことがないからと言って、だから彼らのほうがヒトラーより偉いってことはない。そう思うんですよ」  ぼくはそのとき、これは大変な兇悪な思想で、つまりこれこそは悪しき歴史主義の最たるものだと思った。進歩的文化人は歴史に名をとどめることができない。(できないだろう。)ヒトラーはすでに名をとどめている。前者は悪いことをしなかったし、後者は悪いことをしたからだ。そういう対比を材料にして、倫理から名声へと偉大さの軸を逆転させようとしているのがこの若者の考え方だと思ったのである。  ぼくは、 「青山君、それはどうかな?」  と言い、 「やっぱりアウシュヴィッツというのは……」  と論じはじめようとした。そのときぼくは、もうずいぶん長いあいだ他人に対してまじめな態度で、思想とか政治とか倫理とかについて語ったことがないため、なめらかに口がまわらなくて困っていたようである。ぼくは青年の顔をじっと見ながら、この耳はずいぶん醜いな、と心の隅のどこかで思い、もう一度、 「ねえ、アウシュヴィッツというのは、いいかい……」  とくりかえしたのだが、そのとき女房が下で、 「晃さん!」  と呼んだ。昨日あたりから晃さんとかアキちゃんとか言うようになっていたのである。 「お客様よ」  不審そうな表情で青山は降りて行った。ぼくは脚を投げ出して本棚によりかかり、階下での話声をきれぎれに、聞くともなしに聞きながら、お客というのはどうやら二人、それも男と女らしいと思ったのだが、やがて彼がいま言った進歩的文化人とヒトラーのことを考えはじめた。もちろん進歩的文化人というのはこの肩書からして馬鹿げていて、からかうにはもって来いの存在だけれど、でも青山のああいう考え方はまさしくヘーゲルふうのもので、つまりヒトラーは道徳の埓外《らちがい》である「世界史的偉人」ということになるわけじゃないかとしきりに憤慨し、彼が帰って来たらとっちめてやろうと待ち構えていたのである。そのときぼくはまるで教師のような気持でいたらしいし、それに青山のヒトラー崇拝がこんな程度までたかまっている以上、忙しい最中に無理をしてせっかく本を探したぼくの努力は虚《むな》しかったのじゃないかという後悔、このままほうって置けばこの本はいよいよ彼のヒトラー崇拝に油をそそぐことになるのじゃないかという不安もあって、どうしても彼のヒトラー好きを抑制しなければならないなどと、ぼくは自分に言い聞かせていた。  しかしヒトラーについて論じあう機会はなかった。表紙の青い色が褪《あ》せてすっかり灰いろになり、埃のせいで黒ずんでさえいる『ヒトラーと第三帝国』をぼんやり見ていると、青山が戻って来てその本を手にし、 「お借りしてゆきます。出かけなくちゃならないんです」  ぼくは何か拍子抜けしたような気持で、 「ふーむ」  とつぶやいたが、その声を誤解したのだろう、本探しですっかり散らかった部屋のなかを見まわしながら彼はあわてて言った。 「掃除してゆきます」 「いや、いいんだよ、そんな。待たせちゃ悪いもの」 「いや、それは別に」 「いいよ、かまわない、かまわない」  押し問答をしていると下で女房が、 「晃さん、お待ちかねよ。早くしなさいな」  とどなったので(それから女二人の笑う声があった)、彼はみょうにへどもどして、 「じゃ」  と頭を下げ、仕事部屋から出て行った。ぼくが窓から見ると、白いスポーツシャツの若者が水いろの服を着た若い女と二人づれで帰ってゆく後ろ姿が見えた。  青山はそれから三日ほど姿を見せなかったし、ぼくはそのうちの二日かけて(ただし二日目は印刷所まで出かけて)翻訳をやり、名探偵は無事犯人をつかまえた。翌日は疲れが出てぐったりしていたし、その翌日も、今日はどうしようかなどと思案するだけで何もしないでいると、雨のなかを青山がひょっこりやって来た。ぼくは例のヒトラー論を論じあう気で、しきりにあがれとすすめたけれど、彼はよそへまわるからなどと言いながら、『ヒトラーと第三帝国』を風呂敷包みから出す。 「早いねえ、もう読んだ?」 「ええ、訳すほうは大変でしょうけど、読むほうは簡単ですよ、先生」  そして雨傘をいじりながら世間話の口調で、 「変な話ですけど、塩谷さんはどうです? 中国人と朝鮮人とどっちが好き?」 「そうねえ」  とぼくは考えこんで、本を玄関の本棚の上にひょいとのせ、 「個人個人によるね、それは。一概に言えないや」  青山はうなずいて、 「じゃあ、質問をちょっと変えますよ。中国人と朝鮮人とどっちがこわい?」 「そうね。中国人のほうがこわい……じゃないかな? やはり伝統の力というようなものを感じるから」 「なるほど。つまり朝鮮人のほうをより軽蔑してるわけか」 「うん。軽蔑と言うと語弊があるけど、まあそうだね。でも何だぜ、個人個人のこととなればまた別で、これはあくまで一般的イメージの問題。つまり、イタリア人はマカロニが好きで、ロシア人は酒が強いというような通俗的……」 「ええ、ええ」  ぼくはそのときもう一度、よかったらあがらないか、今日なら閑《ひま》だからすこしおしゃべりしようじゃないかと誘った。青山はすこし気が動いた様子であったが、そばからまゆみが、 「気がきかないわね。デートなんじゃない」  と言った。彼は苦笑して、 「違うんですよ、違うんです」  と打消してから、ぼくたち二人にからかわれながら帰って行ったのである。  美男のレインコート姿はよく似合っていた。それは安もののレインコートで、裾のほうに朱と紺の油絵具がすこしついてにじんでいるのもかえって粋《いき》な感じがする。ぼくはその後ろ姿を眺めながら、ヒトラーのことなんか忘れて絵を勉強すればいいのにとか、官立でなくたっていろいろ絵の学校はあるのにとか考えたが、やがて机の前に坐ってから、ああいうふうに学校《ヽヽ》を社会《ヽヽ》の代表として取る(たぶんそうなのじゃないか?)型の者は、さらにもう一つその学校《ヽヽ》に国家《ヽヽ》の代表という力を添えたくて(たぶんそうなのじゃないか?)だからつまり官立以外の学校は眼中になく、それ以外となると今度は変にひねくれてデザイン学校なんかにはいるのじゃないかと思った。     8  一週間ほどのち、夜おそく舅から電話がかかって来てぼくと話したいと言う。取次いだとき女房は、 「何だか機嫌が悪いみたいよ」  と言い添えた。ぼくと舅との電話口でのやりとりは大体つぎのようなものである。 ぼく どうもお待たせしました。 舅 やあ、塩谷君、夜分お呼び立てして。(間)じつは何だが、その、最近あの男、青山だな、あれはそちらへ遊びにゆきますか? ぼく 一週間前、本を返しに来たきりで。 舅 ヒットラー……(舅はいつもヒットラーと言うのだ。) ぼく ええ、わたしの訳した『ヒトラーと第三帝国』という本。 舅 困ったことをしてくれたな。(長大息して)ああいう本を読ませてはいけない。 ぼく (早口に)しかしお舅《とう》さん、そうおっしゃっても…… 舅 もちろん本で大事なのは読み方なわけだが(また溜息をついて)世に悪書なしというのはそういうことでしょう。つまり常に批判的に読むのが読書のコツなわけだが。気ちがいにああいう本を読ませるのはあぶない。いけませんね。 ぼく 気ちがい? しかし一週間前は別に…… 舅 いや、今日も言うことはきちんとしてましたよ。非常に論理的である。しかしトゥー・ロジカルということはしばしばトゥー・イロジカルということに通じる。いいかね、君、ロジックというものは…… ぼく ちょっとお舅さん、青山がどうしたんです? 事情を一通り説明していただかないと。 舅 ええ、こういうわけです。いいかね。今日、昼すぎにひょっこり訪ねて来まして、書斎に通しました。様子は別に変らなかったが、言うことがおかしい。わたしに朝鮮料理排撃論をぜひ書けとすすめる……要求だな、ああなると。 ぼく ほう。朝鮮料理ね。(呆気《あつけ》にとられる) 舅 その論拠はね、現在の日本で右翼側が政権を取るためには現在のような右翼の方針では古くさくていけない。どうしてもヒットラーの方針に学ばなければならない。そしてヒットラーのユダヤ人排撃に相当するものとして何がいいかと考えると、これはやはり朝鮮人排撃しかない。こう言うんだな、あいつは。もしもし、聞えますか? ぼく はい、はい、(間)しかし、どうも呑みこめませんが。 舅 わたしだって判らないが、あいつの言うところはだね、政治には憎しみの原理が必要だというんです。集団的な憎しみの対象をくっきりと鮮明にすれば、その憎しみの主体である集団は結束が固くなる。憎しみの対象は誰にも判る簡単明瞭なものがいい。独占資本主義というようなはっきりしないものじゃいけない。ヒットラーはこの原理にもとづいてユダヤ人排撃を考えついた。それで政権を取れた。もしもし…… ぼく はい、はい。(間)すると、あの、やる気なんでしょうか?(恐怖におののいて)アウシュヴィッツみたいなああいうこと。 舅 わたしはそれは訊ねましたよ。彼が言うには、まず当面は朝鮮料理排撃、朝鮮料理ボイコット、とこういう線でゆく。そして将来は朝鮮人の本国送還を促進・奨励する。それ以上の暴力団的行動は絶対やらないと現段階では確約する、という、何だか奥歯にもののはさまったような話なんだ。 ぼく (興奮して)いけませんよ、お舅さん。そんな運動にぜったい力を貸しちゃいけない!(叫ぶ) 舅 いや、その点は御心配なく。わたしを信用していただこう。 ぼく はあ。(ほっと安心する) 舅 わたしは昔から朝鮮料理が好きでね、殊にあのキムチという漬物…… ぼく (あわてて)お舅さん、料理のことじゃなく、その、アウシュヴィッツ的行為…… 舅 (落ちついて)それも大丈夫。日本の政治は本来、憎しみが原理では動かない。愛が基本である。憎しみの原理による党派が政権を取れるはずはありません。権力を手に入れない以上、ああいうことは絶対やれない。それに君、冷静に考えてみたまえ。どんな兇悪無残なことを空想しようと、たかが二十歳……二十一歳の若者がたった一人で……同志を集めるなんて言ってたが、何がやれるか。(笑う) ぼく いや、そういう話じゃありませんよ。そりゃあできないとぼくも思いますが、わたしの言いたいのはお舅さんの……(間)……思想家としての……(間)……名誉……(間)……とでも言うようなもの…… 舅 話を聞いた途端から、わたしとしては気に入らなかったね。第一…… ぼく はあ…… 舅 (声を落して)これはここだけの話だが、わたしはまえまえから黒田の家は朝鮮系じゃないかという疑念を持ってましてね。 ぼく はあ…… 舅 父親の顔の感じはそうではないが、叔父や叔母の顔は非常にその傾向の民族的特徴がありました。(しんみりと)それに黒田の家の祖先は出雲から流れて来たとも言われている。 ぼく ほう、そうしますと、まゆみも朝鮮系の血が…… 舅 当り前じゃないか。あれはれっきとしたわたしの娘です。 ぼく (あわてて)それはもちろん…… 舅 それに日韓同祖論というのがあるくらいでね。最近では万葉の語彙《ごい》と古代朝鮮語の比較研究が極めて精密におこなわれています。そんなことを気にするのがおかしい。 ぼく (笑いながら)いや、気にしてやしませんよ。(間)でも、どうして青山は朝鮮人という対象を選んだんでしょう? 何か個人的な怨みでもあるのかしらん? 子供のころ殴られたとか、それからヒトラーみたいに……これは大分あやしい説らしいけど、母親の姦通の相手がそうだとか…… 舅 個人的にも何にも、怨みは全然ないと言っていました。そこがまたおかしい。(吐息をつく)何人《なにじん》が適当かいろいろ考えて、理論的・統計的に決めたと言っていた。 ぼく 統計的…… 舅 純粋に論理的につきつめて、朝鮮人が適当だと考えた、ということだったな。戦後におけるいわゆる三国人の、パチンコ屋とか料理屋とか主として風俗営業による繁栄は、民衆の反感を買ってるに相違ないという推定がまずあって、しかし中国人に対しては日本人は伝統的に畏怖感をいだいているからこれを除く……こういう考え方だった。 ぼく 白人や黒人のことは? 舅 その二つは最初に除外したそうだ。全国民の興奮をかりたてるのに適しないとか言っていた。 ぼく しかし朝鮮人だって適当じゃないと思いますよ。野球の選手なんか人気があるじゃありませんか。大体、今の日本人というのは民族的偏見がないんじゃありませんか? お相撲だって……(笑う)それに黒人にも親切だし。昔からないのかもしれません。言語学的に見ても。 舅 言語学? フィロロジーかね。 ぼく はい。英語学の講義で教わったんですが、ゼノフォービア……外人ぎらいという現象が英語にあるんですね。割り勘のことをオランダ勘定というような。 舅 ああ、ダッチ・アカウントね。話は落ちるが、コンドームのことをフレンチ・レターなんていうのも(笑う)そうだな。 ぼく ええ。(ちょっと笑う)そういう言いまわしは他国民に対する軽蔑、敵意、反感が文化的背景にあるから生れたものでしょう。ところが日本語にはゼノフォービアがない。 舅 なるほど。見当りませんね。なるほど。 ぼく (得意になって)だからそういう心理はないんですよ、日本人に。 舅 ふむ、それを言えばよかったな、あいつに。昼ごろからさっきまで粘られて、ひどい目にあった。こっちは早く帰したいのに姉さんが食事なんか出すもんだから、いよいよ長くなって。原稿がすっかり遅れて困る。この忙しい最中にあんな子供の相手なんかで。 ぼく 今は何を? 舅 『ベトナム戦争がなぜ悪い!』というのでね、まあ百枚ぐらいのものですが。(間)もっとも、パンかなんか持って来ていたからもともと粘るつもりだったようです。ずいぶん思いつめているね、あれは。気ちがいだ。 ぼく はあ。 舅 明治維新もこれで成功したと言っていた。(声をひそめて)これはちょっと意表をついた、おもしろい見方だが。 ぼく と言いますと? 舅 つまり攘夷論《じよういろん》ですよ。あれを明治維新という革命の最も有力な手段と見るわけです。そして攘夷論というのは明らかに外国人排撃運動で、これはヒットラーのやったユダヤ人排撃と通じる。そして徳川三百年の鎖国によって、人心には外国に対する恐怖が非常に多量に蓄積せられていたから、攘夷論はあれほど容易にひろがることができた。この憎しみの原理を利用したからこそ薩長は幕府を倒すことができた——とこう見るわけです。もしもし…… ぼく はい、はい。(間)なるほど。維新の志士がみんなヒトラリストになるわけですか。奇抜だな。とすると、薩長が天下を取ってから開国に切り替えたように、青山も(笑う)政権を握ったら朝鮮人排撃は引っこめるつもりかしらん? 舅 さあ、それはどうか。 ぼく 単なる政権欲……権力欲なんでしょうね。入学試験にしくじった腹いせみたいな妄想《もうそう》…… 舅 なるほど、入学試験。それは考えなかった。こう言っては何だが、わたしはそういうもので苦労したことは一度もありませんから。まあ、時代もよかったが。 ぼく はあ。(間)で、御用件はどういうことでしょう? 舅 用と言っては何だが、もしあいつが行ったら、馬鹿なことは考えるなと教えてやって下さい。あんたとはジェネレーションが近いせいで話が合うと言っていた。 ぼく (茫然として)…… 舅 しかしヒットラーねえ。(悲しそうに)今の若いジェネレーションは、ナポレオンよりもヒットラーのほうが偉いと思っているのかねえ。 ぼく そんなこと言いましたか? 舅 うむ、そういう口ぶりでしたよ。あんな、ヒットラーなんて奴! ロマンチックなところが全然ないじゃないか。わたしがそう言ったら青山は、しかし芸術に挫折《ざせつ》して政冶に向うところが非常に実存主義的だなんて、おかしなことを言っていましたよ。チャーチルの絵ならまあ何とか芸術と言えるかもしれないが。 ぼく ヒトラーはお嫌いだったんですか。そうですか。(ほっとして気を許し)ぼくはまた、ヒトラーを真似て口ひげを…… 舅 (怒って)そんな馬鹿な! ぼく (あわてて)失礼しました。じゃあ、もし来ましたら……でもどうかな、あれだけの美男になるといろいろ忙しそうだから。 舅 (機嫌を直して)そうそう、昨日、青山が来ていないかと言って若い女性が訪ねて来ましたよ。わたしの出版記念会の礼状を刷った印刷屋の娘だ。礼状は届いたろうね。 ぼく はあ。 舅 うむ、青山にいろいろ手伝わせました。そのときに知り合ったという話だった。 ぼく ああ、あれね。ぼくは後ろ姿しか見たことないんですよ。(間)青山は経済的には困ってないんですか? 舅 よくは知らないが、北海道の家はかなり裕福らしい。土建屋だとか言ってましたね。(間)しかし昨日の娘ね、なかなかの美人でしたよ。それにしっかりしているようだ。(間)いや、どうもお騒がせしました。おやすみなさい。 ぼく おやすみなさい。     9  青山は来なかったし、彼の下宿がどこなのかは、いつか貰った名刺をなくしてしまったので探しようもない。また、探すほどの熱意もなかったというほうが正しいかもしれない。舅に訊ねれば知っているはずだということも考えなかったのである。ぼくは、朝鮮人の大量虐殺(?)なんか企てる(?)人間なんかとはもうつきあいたくないと思いながら、一章あたり一人ないし二人が殺される優雅なハードボイルドものをせっせと訳しつづけて日を送った。興味ふかいのは、舅との電話のあとでまゆみに訊ねられても、ぼくが電話の内容を語ろうとしなかったことである。その話題は避けたいという気持が強くて、どうしてもしゃべる気にならなかった。それほどぼくは青山が考えたことに衝撃を受け、嫌悪を感じていた。ただし女房はぼくの受けこたえをところどころ聞いているので、ある程度は察しがついていたらしいけれども。  電話の夜から十日ほどのちの夕食どき、舅がとつぜん何の前ぶれもなしに青い顔をしてやって来て、やはり青山は来ていないかなどとつぶやく。どうしたのかと事情を訊ねると、大体こういう話であった。  舅はあのヒトラリズムの理論を耳にする前に、つまりまだ青山を信用しているうちに、彼に頼まれて右翼関係の人間(「みんな大物ばかりだが」)数名あての紹介状、と言っても名刺にちょこちょこと書いて印を押したものを渡しておいた。青山はそのうちの一人である自衛隊の陸将補のところへは遊びに行ったらしく、陸将補は先日の会のときに青山のことを、なかなか優秀な青年だと言って褒めていたという。ところが青山は、ヒトラー理論の日本適用で舅を煙に巻いた日の翌日、例の満洲浪人、並木沢五郎のところへ紹介状を持って出かけ、同じ趣旨のことをしゃべった。並木沢はいい加減にあしらって帰したが、すぐに舅のところへ電話をかけ、ちょっと来てほしいと言ったそうである。  そこまで話して、細長い顔を深刻な表情のせいでいっそう細長くさせ、 「まずかったよなあ」  と吐息をつくので、ぼくは、 「どうしたんです?」  と訊ねたのだが、 「並木沢は銀座で大きな朝鮮料理屋をやっている」  ぼくはそれを聞いて思わず笑い出したため、こわい顔で睨まれてしまった。ただしこの満洲浪人はさすがに「大物」だけあって、青山というのはなかなかおもしろいことを言う若者で見どころがあるが、ああいう考え方は東洋的な和の精神に反するから、そのへんのところをよろしく指導してやっていただきたいとのことだったそうである。舅はそれから銀座へ連れてゆかれてお手のものの朝鮮料理を御馳走になった。彼はその店を褒めちぎり、殊に、 「ああいう上等のキムチは今の東京ではあの店だけじゃないか」  などと感動していた。まゆみはその言葉にあわてて夕食の支度をしようかと訊ね、舅はしかし今は食欲がないからと断った。  彼は銀座から車で送られて帰ると、すぐに青山に電報を打ったが、若者がやってきたのは一日おいてからである。舅は事情を説明して、それから東洋的な和の精神を説いて聞かせ、これでもう大丈夫だろうと安心していたのだが、今日の午後またもや並木沢から電話があった。それによると青山は今日、ふたたび満洲浪人を訪ね、ただちに朝鮮料理屋を閉店して自分の朝鮮人排撃運動に参加せよと詰め寄ったのだそうである。もちろん並木沢の指令で配下の者がこの来客を連れ出したが、そのとき何か行きちがいがあったらしく、日頃の青山を知っている者にはちょっと理解できないことだけれども(あるいは並木沢の子分がさきに手を出したのか?)多少の衝突があったらしい。そういう趣旨の、今度はあからさまに機嫌の悪い電話を受けて、舅はすっかり弱り切ってしまい、これから早速お詫びに伺うと言った。ところが相手はその必要はないと突っぱね、荒ら荒らしく電話を切ったそうである。  舅は何はともあれ詳しい(しかも一方的な見方でない)事情を知らなければならぬと考え、青山の下宿へ来たが、今朝出たきりで帰っていない。そのときになって舅の心にはようやく、これはひょっとすると並木沢の子分に乱暴をされて怪我でもしているのかもしれぬという不安が生じた。それでも、案外ぼくのところへ来ているのではないかと思って、とりあえず寄ってみたのだそうである。舅が青山のことをひどく心配していることは話し方でも、それからまた青い顔色でも、よく判った。ぼくは、何も満洲浪人のことをそんなに有難がったり恐れたりしなくてもいいのにとも思ったが、彼が自分に非常な迷惑をかけた「気ちがい」の身の上をこれだけ案じているということは、やはり感じがよかった。 「たぶん無事だと思いますがね」  とぼくは気休めを言い、 「そうかな」  と舅はつぶやいて、 「夕食の邪魔をしてしまったね。おい、まゆみ、何か、わたしにはお茶づけでいいから……」  と言いかけたとき、玄関のブザーが鳴った。青山じゃないかと思って、まゆみと二人で急いで出てゆくと、このあいだ彼を訪ねて来た、舅に言わせると印刷屋の娘である。彼女も彼が来ていないかと思って寄ったので、今日の午後、どこかで会う手筈になっていたのにすっぽかされたのだそうである。そして、念のため黒田先生のところに電話してみたけれども、来ていないとのことだった、とも言い添えた。青山の恋人は、いかにも逢びきのときらしくなかなかしゃれた服を着ていた。 「男性ってそうよね。あたしもこの人に昔……」  と女房は思い出話をはじめそうになり、 「おい、よせよ」  とぼくがとめていると、舅も顔を出して、 「やあ、あなたか」  と娘に気さくな調子で声をかけた。娘はいっこうものおじしない口調で、親しそうに、 「まあ、先生。お久しぶりでございます。その節は……」  なんて甘い声を出して、それからもう一度すっぽかされた話を屈託のない感じで語ったが、舅の話(もちろん面倒なところははぶいてある)を聞いてひどく心配しはじめた。ぼくはこのやりとりを横で見ながら、まあ一応きれいな女の部類にはいるだろうが、何かぬるぬるした感じがするなどと思っていた。  そのうちに女は、あたしは心配でたまらないからこれからもういちど下宿へ行って、頼みこんで部屋で待たせてもらうと言い出し、すると舅が自分もゆこうと乗り気になった。ぼくも、ゆかなければいけないだろうかと思ったが、どうせ狭い部屋だろうから三人もはいって押しくらまんじゅうになるのは馬鹿げていると思い直し、何かあったらすぐ連絡してほしいと頼んだ。まゆみは父親の夕食のことをしきりに気にしている。しかし舅はとつぜんの支度で迷惑をかけるのも何だし、それにこの人もまだらしいからそのへんでいっしょに何か食べようと言って、二人で出て行った。  ぼくはまゆみとそれからようやく夕食をとったが、青山の話が一わたりすんでから、 「お舅《とう》さんはあの娘がお気に入りらしくて……」  とぼくが言い出すと、女房は、 「きたないわね」  といかにも厭で厭でたまらないというふうに顔をしかめた。 「きたない?」 「ええ。あのハンドバッグ、見た? 明るいグレイの革なのに、手の脂でべとべと。この前のときもそうだったけれど。ええ別の色の」 「なるほど。全体にこう、ぬるぬるした感じの女だと思ったが。ハンドバッグには気がつかなかった」 「ああいう女がいるものなのよ、せっかくおしゃれしても、何かきたない感じ」  と、まゆみはきびしくこきおろした。  翌朝、舅に電話をかけたが、けっきょく会えなかったというだけでそれ以上のことは判らない。電話を切ってから、青山の下宿の所番地を教えてもらえば散歩がてら訪ねてゆけたのにと悔んだのだが、改めて訊こうとはしなかった。かつてコミュニズムと手を切りたかった以上に、今ヒトラリズムと縁がない身になりたかったのだとも言えるかもしれない。彼のことはそれきりですっかり忘れていたし、せいぜい玄関で、彼が返しにきた『ヒトラーと第三帝国』が、あのときぼくがひょいとのせたまま本棚の上にあるのを見かけるたびに、ちょっと思い浮べて苦笑する程度であった。それにぼくはある出版社から出る西洋ものの大衆文学全集のため、長い翻訳を頼まれて非常に忙しかったのである。  アフリカが舞台のその大冒険小説がようやく峠を越したころのある暑い日、デパートへ買物に行ってもし時間があれば実家へまわるという女房といっしょに、ぼくは家を出た。ただしぼくのほうは散歩のためなので、途中でまゆみと別れ、黒い水の流れている細い川に沿い、かなり遠くまで歩いた。帰って来てビールを一本のみ、それからついうっかり昼寝をしたらしい。目が覚めると、もう夕方に近くなっている。どうやらすこし眠りすぎたらしく頭がぼんやりしているので、すぐ仕事にとりかかる気にはなれなくて、まず、郵便は来ていないかと見に行った。すると驚いたことに、新聞やダイレクト・メイルやSFのファン雑誌にまじって、青山晃からの手紙がある。ぼくは玄関に立ったままそれを読んだ。  東京は暑いでしょう。北海道は涼しくてすばらしいですよ。  在京中は色々とお世話になり有難うございました。小生、母の病気のため一旦国に帰ることにしたのです。  来春再び上京して捲土《けんど》重来今度は政治方面を志したいと思っております。これこそは小生の才能に適した道だと信じます。その節はお目にかかって又色々と有益なお話をうかがいたいものです。  来春まで待てませんのでお手紙さしあげますが、小生には日本の右翼がなぜヒトラーのように憎しみという心理を重視しないのかどうしても分りません。ヒトラーはベルサイユ条約・共産党・ユダヤ人、この三者への憎悪を使ってドイツを支配しました。  日本で右翼が権力を握るにはやはりこれしかないと思います。偉人の知恵に学ぶのがなぜ悪いのでしょうか。これこそニュー・ライトの道だとご高訳を読ませていただいて悟りました。  しかしながら反米(ベ条約に当る)は、現時点の日本のアメリカ依存が甚大にすぎて見こみがないし、左翼は弱体すぎて憎悪の的として充分な資格を持っていません。結局朝鮮人(ユダヤ人に当る)がいいと思って(この選択はまったく純粋に理論的なものです)朝鮮人排撃を綱領に取入れることを方々に(黒田先生を含む)進言しましたが、どうもうまく行かないのです。  日本精神には憎しみはなくて愛と大慈大悲があるだけだなどといわれても、のみこめません。  奇妙なことにオールド・ライトは、大東亜戦争という、誰が見ても他民族・他国民への侵略戦争であるものを(殊に満洲事変と日支事変にはっきりしています。アメリカとの戦争は問題ですが、しかしあれは日支事変の派生的結末でしょう)あれは他民族・他国民を救うためやったのだと言い張るのです。そういう日本の伝統的精神と君の考え方とはまったく矛盾するなどと批評されました。小生の目から見れば、小生の考えのほうがまさしく日本の伝統と一致するのですが、いくらいっても分ってもらえません。  小生がまちがっているのでしょうか? 塩谷さんなら客観的に見ることができる立場ですので、教えていただけると思い、筆をとった次第です。ご意見をお聞かせいただければ幸甚です。末筆ですが奥様によろしくお伝え下さい。  日付その他には目もくれないでぼくはその便箋を封筒に入れ、封筒を新聞の上にそっとのせて茶の間へ帰った。何となくその手紙がきたないような気がして、手で持つのは厭だったのである。舅との電話で青山の意見を聞いたときよりも、ずっと直接的な嫌悪感だった。まるで彼があの鼻にかかった声で、耳もとにこういう「理論」(?)をささやいたみたい。ぼくは糞が手に触れたときのような恐怖を味わった。おかしな話だけれどそのときぼくは、とにかくヒトラーはユダヤ人が嫌い|だから《ヽヽヽ》ユダヤ人をいじめたわけで、「選択」なんかしなかったあたり青山よりずっと人間的でいいなんて、発作的ヒトラーびいき(?)になっていた。それから青山の攻撃する「オールド・ライト」はたしかに頭が悪く不徹底だし彼の言うとおり矛盾してるが、それでも悪いことをしては大慈大悲とか愛とか呟いて、しかもその自己|欺瞞《ぎまん》にみごとに成功する彼らのほうが、青山のような頭のよさ(?)よりずっと感じがいいなんて、腹立ちまぎれに思っていた。  ぼくは手紙を屑籠に捨てた。するとあの美男には似合わしからぬ茸のような耳が心に浮んできて、まるでいまあの醜い耳をどさりと、新聞の折込み広告をねじったのや、汚れた塵紙や、ビニールの袋をくしゃくしゃまるめたのや、穴があいたのでもう履かないことにした靴下の上に、捨てたような気がした。もっともそれでもまだ若者の手紙のことは心を去らなくて、「母の病気」というのは案外嘘じゃないかとか、やはり並木沢の子分には殴られたのかしらんとか、あの女から逃げたくてその都合もあったのじゃないかとか、いろいろと、たそがれのなかで灯りもつけずに揣摩臆測《しまおくそく》に耽っていた。  しばらくして女房が大あわてで帰って来て、灯りをつけ、 「わあ、ごめんなさい。大変なのよ。買物もできなかったのよ。今夜は罐詰料理で我慢して。とにかく大変な一大事なの」  と騒ぎ立てた。まず郵便局へ行って、銀行へ行って、それからさきに実家のほうへちょっと顔を出そうと思って出かけたら父親は留守で、文子伯母だけがしょんぼりしていた。二人でいろいろ話し合って、気がついたらとんでもない時間になっていたので大急ぎで帰って来たのだそうである。 「一大事というのは何だい?」  と訊ねると、 「その前にお米とぐから。台所へ来てよ。お米といでるそばで聞いてて」  ぼくは最初、米をとぐ音と電気掃除機の音とはどちらが騒々しいかむずかしい問題だなんて思いながら聞いていたのだが、そのうちにこれはまさしく容易ならぬことだと緊張した。舅が再婚する、しかも再婚の相手はあの印刷所の娘だというのである。もちろんそれだけならば、ただ意外だというだけで別にどうってことはないし、 「ほう、それはおめでたい」  などとぼくは舅の艶福を祝ったのだが、それを聞いて女房は米をとぐのをやめ、こわい顔になって、 「伯母さんはどうするのよ」  と言ったのである。 「それは三人いっしょにだな、暮せばいいさ」  とぼくは答えたが、その声はすでに弱々しいものになっていた。果して、まゆみの報告によれば伯母はあの女が大嫌いで、すでに一度か二度、訪ねて来た彼女と衝突しているらしい。まゆみと伯母とは今日の午後数時間、その悪口に熱中したというのである。 「それで伯母さんはどう言ってる?」  とまず遠まわしに訊いてみると、伯母の持ってる土地に今度マンションが建って、そのなかの一階を全部、地主の権利として貰うことに話が決っているから、そのうちの一つ二DKのところに引越して一人で小鳥といっしょに暮そうかなんて言ってると答えた。とにかく、誰が何と言ってもあの女といっしょには暮さないと宣言しているのだそうである。  どうもまだそのさきがありそうなので、 「ほほう、マンションね」  なんて曖昧な返事しかしないでいると、まゆみは電気釜にスイッチを入れてから恐しい提案をした。伯母にあの年で一人ぐらしをさせるのは残酷だから、ぼくが舅にかけあって膝づめ談判で結婚をやめさせるべきだというのがその提案である。ぼくが、そんな理屈に合わぬことは絶対できないと答えると、今度は、それじゃあたしたちの家《うち》に伯母さんを引取りましょうと、仰天すべき内容のことを事もなげに言う。そして渋っているぼくに、追討ちをかける形で、実はあんまり伯母さんがかわいそうなので、ついそのことを口に出したら泪を浮べて喜んでたなんて、さらに驚くべきことを打明け、 「ねえ、いいでしょう。伯母さんは天涯孤独なのよ」  とむずかしい言葉を使って感じを出している。  彼女はまた、マンションの一階を貸した家賃がはいるから経済的には決して迷惑はかけないと言っているとか、大体あなたは籍のことで伯母さんの提案を二つも断ってるからこのへんで義理を返して置かないと済まないとかくどくどと言った。ぼくは、家賃うんぬんのことはともかくそれなりに論理が通ってるけれど、戸籍の件と同居の関係というのはぜんぜん変だとしきりに論じつづけ、夕食のあいだも、食後も、いや、真夜中まで一生けんめい説明して聞かせ、とうとう——まゆみに負けたのである。  初秋のある晴れた日、伯母はたくさんの鳥籠に埋まるみたいにしてタクシーで乗りつけた。ぼくはもうやぶれかぶれで女房の言いなりになり、二階の今までの仕事部屋を伯母と小鳥たちに明け渡して下へ移り、毎日、翻訳と小鳥のすり餌つくりにいそしんでいる。伯母が来たので助かることと言えば、何しろ無茶苦茶に記憶力がいい人なので、原稿の〆切りが何日なのかをぼくが覚えている必要が全然ないということだろうか。  困るのは、もうすっかり諦めていたのに女房が妊娠したことで、いやそのことは別に困らないけれど、生れる子供は黒田の家をつがせようとまた伯母があの話を蒸し返したことだ。すると今度はまゆみが、すくなくともいちばん上の子供はそうさせないなんて言い出し、二人はいろいろ言い争っている。だが、ぼくが思うには舅の新妻が今後妊娠しないという保証はちっともないわけなのだ。  舅の新婚生活は、結婚式や小人数での披露宴には三人とも出席したけれど、それ以後はさっぱり没交渉なのでよく判らないが、人の噂ではいたって幸福であるらしい。婦人雑誌に載せた『四十歳年下の妻をめとって』という文章などいかにも嬉しそうなもので、そのせいなのか最近はあまり国事を論じなくなり、家庭論を中心にして稼いでいるようだ。なお、自分と妻の年の開きを四十にしたのは言うまでもなく誇張で、まゆみと伯母はこのことを手きびしく弾劾していた。  青山晃がどうしているかは知らない。今年の春も訪ねて来なかった。もちろんぼくとしてはああいう来客はないほうがいいのだが、しかしそれならそれで気にかかることもまた事実である。 [#地付き]〈了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和五十年四月二十五日刊